北京から桂林へ~1989.10-12中国②

北京で八達嶺一日ツアーに参加する

天安門でおそろしい目に遭ってすぐ、専科さんは職場に戻って行った。とにかく北の人間は性格が悪く、何か尋ねているのに皆まで聞かず「ブーチータオッ!!!」と吐き捨てながら去っていく、という話が面白かった。「不知道」でブーチータオ、わからない、知らない、という意味だ。中国語には吐き出すような発音も多く、今は日本で彼らが中国語で話しているのを見る機会も多いと思うが、喧嘩してるのか? と感じることもあるのでは。それは彼らの地声の大きさと、カッ、パッ、ペッ、というような吐き出す音の強さがそう感じさせるのだ。もちろん本当に喧嘩していることもあるが(笑)
とはいえ、そんな地声の大きさや傍若無人なふるまいなども、若い世代になればずいぶんと緩和されてきている。それはもうまったく間違いのない事実である。

さて。
北京の次は桂林に行ってみようと、これまた列車のチケットが取れずに航空券を購入した私である。その日までにはまだ時間がある。市内の天壇などには行っただろうか、ちょっと今は覚えていない。
八達嶺、万里の長城に行く1日ツアーがあると駅前で見かけたので申し込んだ。北京では専科さん以外に日本人には会っておらず、一人で参加した。

観光バスにぎっしりと客を詰め込み、バスは出発。私以外全員が中国人という超アウェー状態。ただこの時の乗客たちは互いにグループを形成していて自分たちで楽しく騒いでおり、私は見事に放っておいてもらえた。それはそれで気楽であった。

市内を出ると一面の麦畑だった。収穫した麦を舗装された路面に延々と並べている。当時は舗装道路は幹線路のみで、それとてすれ違いは難しそうな広さの道ばかりだった。それでもたまに車は通るので、タイヤに牽かせて脱穀していたのだと思う。そういう風景を延々と見続けた。

明の十三陵に寄った。明代の皇帝や妃たちのお墓だ。石像がたくさん並んでいた。1年前に西安で見たものと殆ど同じように見えて、ただぶらぶらと歩いただけ。もしかするとこの1つ前の投稿で天壇? とした写真が、こちらだったかもしれない。

一応載せておく

八達嶺に上がるところの駐車場だと思う。周辺にこんな風に地元の人が露店を出してお土産品を売っていた。売り子はほとんどがおばちゃんであるが、みな白い帽子をかぶっている。白い帽子といえば回族が思い浮かぶが、どうなのだろう。単純に「お店の人」の制帽っぽい? ものなのかもしれない。

長城が見える。

長城を登り始める

延々と続いているし、分岐している場所もある?

けっこうな人、おぉ西洋人もいた

かなりの急勾配

それにしてもよくこんなに作ったものだ

八達嶺はこれで終わり。あまり覚えていることもないが、ちょうど柿が熟れる時期で、バスにも柿売りが来ていた。中国人たちが買い求めるのだがもうぐずぐずになっているやつで、窓を開けてぐずぐずを食べるというよりもすすり込むような感じで、例によって汚いのぉ……、と思ったことはよく覚えている。

因みにこの一日ツアー(一天遊)の値段は6RMB(人民元)。180円くらいかな。

市内へ戻ると、もうすっかり夜だった。天安門にさしかかると、乗客が一斉に「天安門だ」と窓の外を見つめる。地方からの旅行客が殆どだ。この当時、国内の人がどのくらい事件について知っていたのか、甚だ疑問だ。殆ど知らなかった可能性も高いと思う。
前門に向かって天安門広場の横を通るバスから見ると、数メートル置きに立っている兵士はまるで十三陵の石像のようだ。石のように、微動だにせず立っている。闇に包まれた広場には、他に人影はない。
ここで流された血を思う。巨大な国、中国。こんなに広い国土のなかで、それでも一杯に肥大してしまった国、中国。巨大な竜が、出口を求めて身悶えしている。
(この最後の部分は旅の直後に書いたものから抜粋した)

桂林は最悪・・・(その時の私にとって)

桂林へ飛び(航空券340FEC)、外国人が宿泊可能な宿を軒並み当たったが、すべて建物の外に「外国人宿泊不可」と大書されており、途方に暮れた。この時期桂林は、外国人を締め出していたのだと思う。理由はわからない。外国人が泊まれるかどうかはわからない宿にも手あたり次第に当たってみたが、すべて宿泊不可。どうせいっちゅうのじゃ。

万策尽きて、客引きについていった宿に泊まることに。何となく嫌な雰囲気がしていた。個室だったというのも大きい。それまで中国で、個室に泊ったことが殆どないからだ。ドミなのに誰もいなかったということはたとえば88年の西安であったが。
そして部屋はたしか3階だったのだが、窓の外に2階の庇部分が大きく張り出しており、それも引っかかるといえばそうだった。
それでもとにかく宿が確保できたので、町へ出てみた。次に行く昆明へのチケットも買わなければならないし、桂林といえば川下りだろう、それも申し込んでおきたかった。
列車駅ではまたしてもチケット購入不可で、航空券を買いに行った。航空券なら買えるというところが実に面白い。バスはどうだったのか、桂林から直通はないと思うし試していない。

色々歩いてその日の夜だ。新しい場所は眠れないのが常で、この夜もそうだった。何となく不穏な気配を感じていたので、ドアの前に室内にあった大きな椅子を置いていた。
この当時中国では宿に泊まる時、自分の部屋の鍵をもらうことはなかった。ドアは服務員に開けてもらう。閉める時も同じ。ドアチェーンなぞというものはない。つまり宿の人間は簡単に部屋に入って来られる。
眠れないままぼんやりしていると、ふと、窓の外に気配を感じた。何かがいる。明らかに、確かに、何かがいて動いている。コンクリートの庇の上を動く音がする。
どうするか、咄嗟に考えた。逃げ道を作らなければと、まずドアの前に置いていた椅子をそっとどかし、そこから自分が逃げられるようにした。その「何か」はまだ外にいる。窓をいじっている音がする。鍵はあっても甘々で、簡単にこじ開けられそうだ。
私は意を決して電気を点けた。そして次の瞬間にカーテンを開き、「何か」がいた場所とは離れた窓をガン! と開け放った。外開きの窓だったと思う。

果たしてそこには男がいた。
昼間、客引きと一緒に付きまとって来ていた男だった。そいつの案内で私は川下りのチケットを買っていた。わずかに英語が話せる男だった。

「誰だお前! 何してんだ!」
「I am policeman looking around……」
と言いながら、男は後ずさりして行った。
「そんなわけないだろ!!!  死ね!!!」
私は絶対に負けないようにそう絶叫した。男はおそらく2階の階段の窓から建物内に戻り、そして逃げて行った(と思う)。

見つかったことで慌てるような小心な奴で本当に不幸中の幸いだった。そんなものをものともせず、部屋に押し入って来るような奴だったとしたら、そいつは何にしても目的を遂げたに違いないのだ。
本当に危なかった。嫌な予感を感じることはあるし、他に選択肢があればこの宿には泊まっていない。怖かった。一日も早く桂林を抜けたかったが、飛行機は毎日は飛んでおらず、その日まではここにいるしかない。

翌日、あらためて町を歩き回った。そして奇跡的に白人の姿を見かけたので、どこに泊っているか訊いてみた。彼らはツアーの一員だったが、大きなホテルは外人禁止になっているため小さめの所に泊っているのだと、場所を教えてくれた。急いでそこに行き、訊いてみると最初は個人客はダメと言われたが、昨夜これこれこういう宿に泊まって怖い目に遭ったと話すと同情してくれ、泊めてもらえることになった。ほっとしてそこのドミトリーに移動した。

そんなこともあったが川下り

そんな怖いこともあったが、宿を移ると気分も晴れた。ドミトリーとはいえ4人部屋だったと思う。しかし客は他におらず私だけ。部屋は2階で下に庇などもなく、侵入される可能性は低いと思った。何より私の居場所を知っているのはホテルの人だけだ(もちろんそれだって十分に危険性はあるのだが)。

桂林の川下りは漓江という川を下る

こんな船だった

水牛がいた

こちらは小舟でおそらく川海苔のようなものを採っている

奇岩林立、いかにも桂林の風景

地元の人たちを載せた船、野菜なども積んでいる

漓江は観光船以外にも地元の人たちが利用するこういう船も通っていた。川を遡っていると思われるこの舟も、人間と野菜や鶏などの品で満杯状態。どこまで行くのだろう。

船着き場があり、人の乗降がある

何かの養殖?

台湾の人に撮ってもらった

船には台湾からの観光団が乗り込んでいた。この人たちはおそらく、どんな宿にでも泊まれるのだろう。
この頃の中国ではよく「港台同胞」や「香港台湾同胞」といった文字を見かけた。主に駅の切符売り場などが多かったかと思う。彼らには特別な優遇措置があった。88年には私も知り合った香港人に切符を代理購入してもらったことがある。彼らは中国人ではないが外国人でもない者として遇されていたわけだ。

因みにこの時の漓江下り、95FEC、自分では買うことができず(外国人不可)のためやむなくダフ屋から買ったのでボラれていると思う。船内での昼食と、船を下りたところから桂林へ戻って来るバス代は込みだった。

日本語の話せる台湾の人に声をかけられた。色々な話をしたが、
「こんなに貧しくて、中国人は可哀そう……」
と何度も言っていたことが記憶に残っている。確かに中国はほんとうに貧しい国だった。何もかもが足りていなかった。バスも列車も需要に対しての供給があまりにも少なく、故に常に彼らは怒鳴り合い、列など作らずに我先にと突進し、殴り合い、自分の席を確保する。貨物専用の車などないから、バスに大量の野菜や鶏や豚が詰め込まれる。物乞いも多く、「人民」は本当に劣悪な環境に暮らし、教養もなく、野卑で鈍重だったと思う。今の中国からは想像もつかない部分が多い。

桂林では、ほぼ完ぺきに英語を話せる中国人に出会った。どうしてだかわからないが白人の子どもをいつも連れていた。桂林が、日中戦争当時にかなり爆撃の被害にあっていたことを、その時初めて知った。なぜこんな小さな町を空襲したのだろう。不思議に思って調べてみると、ここには米軍の航空基地があり、海上艦船や台湾を爆撃するためのB29がここから飛び立っていたから、なのだそうだ。相当に激しい爆撃と地上戦が行われたらしく、そういうことをまったく知らなかった自分が恥ずかしかった。

 

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    2度目の中国 1989.10-12 ①

    3月にネパールに行き、4月に香港と那覇を経由して帰国した。那覇に着いたのは4月も半ばを過ぎた頃だったと思う。その年の4月から日本に初めて消費税が導入されていた。商店でものを買うと3%余分に払わなければならない。慣れずに何度も「え? あ、そうか消費税……」となって店の人が不思議そうな顔をした。多くの人はもうその時期を過ぎていたのに、私だけが「え? あ!」とやっていたので。
    それから少しして前年にネパールのランタン谷を一緒に歩いた人から連絡があり、バイトしないかと。ほいほい話に乗っかって、広告代理店でしばらくバイトをした。電飾看板を撮影して歩くのが主な仕事だった。喫茶店や煙草屋や酒屋やそういった店が、店の前にちょっと出しているあれである。あれは警察に「歩道占有許可」を申請して許可をもらわなければならない。その書類作成のために「実際にどんな感じで看板が置かれているか」を撮影し、貼り付けて提出していたのだと思う。毎朝数件の住所をもらい、電車やバスでその場所に行き、声をかけて看板を撮影する。気楽な仕事だった。3~4か月はやっていただろうか。面白かったが仕事そのものが減ったので辞めた。

    その間に中国では天安門事件が起きていた。あの日のことは忘れない。新聞一面の上部をぶち抜きで真っ黒い四角枠と白文字が覆っていた。大勢が亡くなり、中国の民主化運動は実質この日に死に絶えたのだと思う。

    10月の半ばに中国に旅立った。88年の旅では北京には寄らなかった。行ってみようかと思った。
    旅の最初の地点は大連。全日空機で旅立った。


    成田→大連→北京→桂林→昆明→シーサンパンナ→昆明→大理→昆明→重慶→武漢→上海(武漢から上海は長江を船で)

    大連~北京

    大連へ行くと88年に上海で出会い一緒に帰国した人に話すと、東北地方は宿がなくて困るかもしれないから一応教えておくねと、大連外語学院(確か)の住所を教えてくれた。
    大連への飛行機はガラガラで、殆どの人はビジネスマンだったらしく、入国して税関を抜けるともう誰もいなかった。大連空港にはバスもなく、仕方なくタクシーで目星をつけていたホテルに向かったのだが、断られる。次も断られる。そしてまた次も。
    当時の中国は外国人が泊まってもいいホテルが町ごとに数か所ずつ指定されていた。そんなに多くはない。すぐにその数か所を巡ってしまい、全部断られ、途方に暮れた。その時に思い出したのが外語学院の住所。タクシーに訳を話して向かってもらい、受付のような場所で必死に訴えていたら日本語のできる人が出てきてくれて、学生寮に泊めてもらえることになった。
    東北地方恐るべし、だった。

    当時の大連の風景なんとなく。遠くに海が見えている。海というか港か。

    外語学院は不便な場所にあり、近くに何もない。学生ではないから食事もない。カップ麺を買って食べたりした記憶がある。これはさっさと北京に出ないとと列車の切符を買いに行ったが、売ってもらえない。何やら許可証のようなものが要るらしいのだが、それは私には取れないもので困った。困って学院の人に相談すると、飛行機なら大丈夫だと教えてもらい、チケットを買いに行くと確かにこちらはパスポートだけで購入できた上に、列車より安かった。

    外語学院での思想教育風景(違うか)。軍事教練のようである。全員が緑の人民服を着て、「121! イー アール イー!」と行進していた。ここにいるのは1年生、天安門後に思想教育が強化されていく一端だと思う。この行進は私がそこにいた両日とも、ひたすら続けられていた。

    大連には2泊したのみで北京に脱出した。東北地方はどこへ行っても同じ状況ではないかと思ったし、何よりあまり寒くならないうちに北京に行きたかった。

    北京では、当時外国人が泊まれる宿は本当に僅かで、その中で一番安いこれまた不便な場所にある宿に行った。僑園飯店という名の宿だった。バス停から運河のようなものに沿って歩いて行った記憶がある。その運河が凍っていた記憶も。3人ドミで12FEC(外貨兌換券)。この時のレートは39円ほどだったので、460円くらいだ。
    この宿の周辺にはいつもウイグル人たちがたむろしていて、チェンジマネーを持ちかけられた。外貨兌換券(ワイホイ)を闇で替えると1.5~1.7倍の人民元(レンミンピー)になる。ワイホイでなければ買えないものが存在したので、ウイグル人たちはそれを欲しがる。外国人もレンミンピーしか通用しない場所だらけだからレンミンピーが欲しい。お互いに得になるのだが、ウイグル人たちはマジックを使って胡麻化してくるというのも有名な話で、当時中国を旅していた人ならウイグルマジックという言葉を聞いたことがあるはずだ。
    レンミンピーが足りなくなってきたのでウイグル人と交換しようとした。ホテルの駐車場でだ。彼らがレンミンピーを数える。「1,2,3,4」で16まで数える。こちらが100元に対して彼は160元を私に支払う。10元札で16枚。彼は紙幣を束ねて指の間に挟み、1枚ずつ数えていき、これでいいだろうお前の100元を出せと言ってきた。
    私は彼らの手口を知っていたので、その前に数え直させろと譲らない。しぶしぶ渡された札束をよく見ると、半分くらいが半分に折り畳まれている。1枚を2枚に見せかけるためだ。
    「ダメ、交換しない」と言い放って私はその場を離れた。
    ホテルの中に入ると心配しながら見ていたらしい欧米人に「気をつけてね」と言われ、私は笑った。

    紫禁城だと思う

    革命軍事記念館と思われる。「反革命暴乱」とは天安門事件のことであり、「罪行は累々、鉄の証拠が山のごとし」なのだそうだ。背後には戦車などが展示してある。

    破壊された戦車が並んでいた

    記念館の中には、全国各地の子どもたちから届いた「兵隊さんありがとう」という手紙が大量に貼り出されていた。反革命分子たちの非道な暴乱を命をかけて鎮めてくれてありがとう、僕たちは安心して勉強できます、的なことが延々と書き連ねてあった。

    事件直後に始まった「反革命分子」狩りは半年過ぎたこの頃もまだ続いており、当時の写真やビデオなどが集められそこに写っていれば容赦なく連行され、そのまま消えた人も多いと聞く。

    天安門広場

    宿で、山東省に日本語専科(教師)として滞在している人と知り合った。天安門事件に参加して消えた学生の消息を探していると言っていた。
    天安門に一緒に行った。天安門は中国の象徴ともいえる場所で、建国宣言もここで行われた。事件から半年の当時、天安門に行くことはできないと言われていたが、近くには行ける。そこまで行ってみようと出かけた。
    おそらく、前門東大街、という交差点だったと思う。ここにバスと徒歩でたどり着いた私たちは、天安門の方向を眺めていた。歩く人は確かにここでストップをかけられているのだが、車は普通に入って行っている。尤も当時、普通の車というものは殆ど存在していなかったのではあるが。
    既に夕暮れ時になり、退勤する人たちも大勢いたように思う。車と自転車が通って行くのを、私たちはずっと眺めていた。

    私たちに気が付いた自転車リヤカーの人が声をかけてきた。中国語のできる専科さんが話している。
    「入れるらしい、これに乗れば入れるらしいよ」
    「ほんと? じゃ、行ってみましょうか」
    と、そんな軽い気持ちで、リヤカーに乗った。おじさんは自転車を押しながら交差点の歩道から車道に出た。付近で警戒している兵士たちも何も言わずに見ているだけだ。

    多くの市民が自転車で天安門エリアを通行していた

    大勢が集まり、テントを張って頑張っていたのはこの付近かもしれない
    リヤカーは長安街に入る。

    これがかの有名な天安門。塔のようなものの陰に毛沢東の肖像画がある。

     

    長安街から前門に向かう。自転車は本当に多い。停止することは(基本的には)禁止されていた。

    リヤカーのおじさんが自転車を止めて、記念写真を撮ってくれた。数メートルおきに兵士が立っているが、おじさんは顔見知りらしく愛想よく振る舞い、兵士たちも笑顔を見せていた

    自転車をこぐおじさんの背中

    どんどん日が暮れてゆく。

    前門西大街に到着する、ここが終点だと聞いていた。出発した場所とは違う。これがこの時最後に撮った写真だ。既に暗くなっており、専科さんのカメラのフラッシュが光った。

    リヤカーがこの右手の歩道方向に寄って行くと同時に、わらわらと周囲にいた兵士が殺到してきて、気付くと私と専科さんはリヤカーを下ろされ、兵士たちに歩道の隅っこに連行された。視界の端でちらっとリヤカーの人を確認すると、こちらはぜんぜん別の方向にやはり連行されて行ってしまった。
    私たちを10人ほどの解放軍兵士が取り囲んでいる。銃口を向けている兵士もいる。全員が怒っているように見えた。口々に何か言っているが、私には聞き取れない。専科さんが必死に何か話している。留学生で、どうしても天安門を見たくて、というようなことを説明していたのだと思う。リヤカーの人も私たちのことを、留学生だと伝えたはずだ。ずいぶん長い時間が過ぎたと思う。専科さんの説明に兵士たちは納得しているのかいないのか、私にはわからない。
    銃で小突かれ、「お前は?」と訊かれる。私は非常に拙い中国語で「自分は留学生で、来たばかりで言葉ができません」と言うのが精いっぱい。兵士たちがいら立つのがわかる。ガチャ、ガチャ、という硬い金属音が響く。撃鉄が下ろされていくのだ、兵士たちの銃から。専科さんが「何をしていたのか訊いている」と言ってくれ、さて困った。もちろん専科さんは「この人は来たばかりで中国語は全然できません」と言ってくれていた。しかし何か言わねばこの場が収まらない。とにかく言うしかない。

    「偉大的領袖毛沢東同志永眠的地方我要看 !」

    これがその時、私がひねり出した答えだ。中国語として滅茶苦茶だと思う。ほんとすいません。
    「偉大なる領袖、毛沢東同志が眠っている場所を見たかったのです」と言ったつもりだ。この時期テレビを付ければこの「偉大的領袖毛沢東同志」というフレーズが数分おきに聞こえたような。だから一連なりの言葉として覚えていたのだ。

    ふっ、と、兵士たちの緊張が解けた、と思う。言葉もできないバカが、と思ったのだろう。害はなさそうだ、とも思ったのかもしれない。とにかく私と専科さんは唐突に解放された。その時に初めて、私たちと兵士たちを囲んでたくさんの市民が、じっと成り行きを見物していたのを知った。その人垣をかきわけて私たちは逃げ、そこから走って走って、何しろ私は止まりたいのだが専科さんが止まらないのでとにかく走って、なんと、北京飯店まで突っ走った。

    北京飯店の大きな階段にたどり着いて私たちはようやく止まり、そこに座り込んだ。
    「殺されると思った」
    息が静まって、専科さんが呟いた。私はそこまでは思っていなかった。「まさかね」と、事態を甘く見ていたのだと思う。まさか撃たれるわけがないと、たぶん思っていた。その時はもちろん混乱のさ中にあって、そんなことを考えたり思ったりする余裕はなかったはずだが。
    ああこの人は中国の中にいて、天安門事件を経験した人なのだと思った。

    この時期、北京の各所には、「没有死亡一个人」(誰一人として死んではいない)という言葉が掲げられていた。兵士は死んだが、市民も学生も一人も死んではいないというのである。もちろん大嘘だが、誰も異を唱えることができない。独裁恐怖政治というのはそういうものだ。
    中国語で、「死亡」と「希望」は同じ発音、「シーワン」と読む。人々は、「没有死亡」ではない、「没有希望」なのだと、絶望しながら話していると、専科さんに聞いた。ろくよん天安門事件と、私自身の天安門事件を思い出す度に、このことを思い出す。

    もうひとつ思い出したことがあるので書いておく。専科さんの言葉だ。
    「これは笑い話にしたいけれど、学校の中の一部の生徒には絶対に話せないのよ。彼らは笑いながら話を合わせておいて、あとで密告するわ。そこに良心の呵責なんて一切ないの。本当に、おそろしい国よ。彼らが言う“没有希望”も、もっともなことだわ」

    右側のA地点から上へ向かい、左折して長安街へ入り、また左折してAとBが重なっている地点までリヤカーで。ここで兵士に捕まり、解放されてから、右へと走って北京飯店まで。
    今は名前が違っているがおそらくこれが当時の北京飯店ではないかと思う。もちろんまったく違うかもしれない(^^; あの時の北京飯店は道路からたくさんの階段を上ってようやく建物があったと記憶する。現在ここにあるノボテル北京はそういう立地ではないようなので。ただ感覚的にはこのあたりだった、それは確かだと思う。
    それと現在はたぶん自転車でも徒歩でも、長安街から左折してまっすぐ前門へ行くルート(広場西道路)は閉鎖されているのだと思うが、当時はこの道を走ったように記憶している。

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      2度目のネパール、初のエベレスト街道 1989年3月

      前年の暮れに帰国してから3か月も経たないうちに、再びネパールへ行くことになった。
      私は大学3年になる時に就職して半分社会人のまねごとをしていた。大学に行きながら働ける珍しい職場で、就業時間は午後3時45分から9時だったと思う。週に1日だけは大学のための遅刻が認められており、その分は他の日に早出すればよく、何とかやりくりできた。バイトをいくつも掛け持ちしても自分が希望するだけ働けるわけでもなく時給も500円前後と安かったので、いい仕事を探していてたまたま見つけたのがそれだった。娘がいきなり扶養から抜けてしまったので父親はずいぶんびっくりしていた(^^;
      その時の職場の先輩が仕事を辞めて郷里に戻ることになり、その記念にヒマラヤに行ってみたいということで、一緒に行くことになったのだった。

      香港経由でカトマンズへ。香港までの片道切符で行ったと思う。カトマンズまでの往復を買った。
      2度目のカトマンズ、ダーバースクエアのあたり。ヒッピー然とした西洋人旅行者がちらほらいるが、自分もまぁ似たようなもんだったかと思う。まだまだのんびりした時代だった。

      これもダーバースクエアのあたり。奥に見えているビルの手前を右に入って行けばジョッチェン、フリークストリートだと思う。旅行者のたまり場は既にタメルに移っており、ジョッチェンにいる人は少なかった。ゲストハウスもそんなにはなかったように記憶している。露店で売られているのはたいていがチベット風のお土産品。

      カトマンズの大きな通りを歩いていたら、突然
      「ゴトーちゃん! 何してんのこんなところで!」
      と声をかけられて驚いた。よくよく見れば前年のカトマンズで、例の日本の登山隊が使う宿で数日一緒だった人だった。私がほかの友人と一緒にランタンに入る前に帰国していったと思う。その時に、その場にいた人が「住所交換しようぜ」と言ったのに、「俺はアキラ、じゃ!」と去ってしまったので、けっこうみんな「おぉ……」と驚いた、その人だった。一緒に当時王宮通りにあった日本食の古都、いや串藤だったかな、そこでお昼を食べた。
      アキラこと彼はその時、日本からのツアー客を引率するバイトをしていた。英語が堪能なので頼まれたらしい。はぁ、あんたプログラマーって言ってたじゃん、的な会話を交わしたのを覚えている。
      「お姉ちゃんたちを連れて明日帰国するんだ、バンコク経由で」
      「そうなの? 私は明日ルクラへ飛んでちょっと山に入るよ」
      「まじか、気をつけてな」
      アキラは「まさか再会するなんてなー」と言いながら、住所と名前を教えてくれた。

      ルクラへ、トレッキング開始

      ルクラへ飛ぶ小さな飛行機、15人くらいしか乗れない小ささだ。

      ルクラの標高は2800m強。ここまで徒歩で行くこともできるが、1週間かかるそうだ。

      ルクラの空港に着いた。西洋人トレッカーが多い。

      ルクラの外れで牛かヤクの毛皮を干していた。

      こんな道をどんどん歩いて行く。道は割とゆるやかなアップダウンを繰り返す。そんなにきつくはない。吊り橋を渡った。この橋は、たしか、この1年半後に来た時にはもっと上の方に付け替えられていたと思う。

      初日はパグディンまで歩いた。山小屋(バッティ)で1泊。
      翌日はナムチェバザールまで。

      初めて雪山が見えた、たぶんエベレストが見えている気がするが違うかもしれない。左の小さい黒い三角がエベレストに見える。

      斜面の道から谷まで下り、登り返すことの繰り返しだ。今日の方がかなりきつい。
      最後に川を渡ってからの登りがまぁ長いこときついこと。

      ナムチェが見えた!

      コンデ・リだと思われる。ナムチェバザールから撮影

      ナムチェで2泊した。3400を超える標高なので、高山病が出て不思議ではない。だからここで高所順応のため2泊するのが望ましいとされている。

      タンボチェへ、絶景だ!

      ナムチェで悪いニュースを聞いた。タンボチェから先が大雪で進むことができないという。多くのトレッカーがそれで引き返してきているとのことだ。我々もタンボチェ停まりかもしれないねと話しながら、とりあえずそこまでは行けるというので出発した。

      ナムチェから背後の斜面を登って、最初に見える風景がこれ。酷い写真だけど、最初に撮った1枚だと思うので記念に残しておく。

      ちょうど私の真上にある小さな黒い三角がエベレスト。その右がローツェ。いちばん右にあるのがアマ・ダブラム。この山々を眺めながら登山道が続く。

       

      ナムチェからしばらく山腹の道を進むと、道は急激に下りになり、プンキテンガという地点まで下る。そこは谷底だ。そこからはひたすらに登る。このタンボチェへの急登で高山病になる人が多いらしい。どんどんどんどん登って、そしてタンボチェに到着する。

      タンボチェ。大きな僧院があり、この当時たしか2軒ほどバッティがあったと思う。単独でトレッキングをする人はまだ少なく、多くはトレッキングツアーとして山に入っているため、ガイドやポーターの姿が多い。ツアーの人たちはテントを張ってそこに泊る。単独の人がバッティに泊る。タンボチェ僧院は残念なことにこの年の1月に火事で焼失している。このため私はその姿を見たことがない。行くまでそんなことは知らなかったのでたいへん驚いたし残念だった。

      翌早朝。テントが霜で凍り付いている。エベレストが美しい。

      アマダブラムも美しい。この山は特徴的な姿をしているのでとても人気がある。

      タンボチェの端の方に、登れそうな高い場所があった。早朝、そこに登ってみた。もしかしたら4000mを越えられるかも? と思った。その場所の標高はわからない。

      ルクラでまさかの……

      タンボチェから先はやはり大雪とのことで、本来ならカラパタールへ行くはずだったトレッキングツアーも続々と引き返していく。先の方から来る人はおらず、やはり進むのは無理そうだった。
      タンボチェで2泊して我々も引き返す。ナムチェで1泊し、次の日はルクラまで一気に。下りは速いというのもあるし、数日山を歩くと最初とはまるで違う歩き方になるのでもある。

      ルクラに着き、早速空港事務所に出かけた。その時我々が持っていたのはオープンチケット、日付指定のないチケットだ。何日山にいるかわからないので普通そうする(単独の場合)と思う。
      ところが、飛行機が飛ばないので、ウェイティングリストが100を超える数字に膨れ上がっており、日付指定が出来ないという。出来ることは、待つことだけ。
      この頃、カトマンズ~ルクラ間の路線はロイヤルネパール航空のみが飛んでおり(ほかの航空会社はまだ存在していなかったと思う)、最大に飛んで3往復だった。霧や雲で簡単に欠航になることで有名なこの路線。1便しか飛ばない、がんばって2便、まったく飛ばない、こともよくある。

      我々のウェイティングが始まった。当初はさほど深刻に考えてもいなかったのだが、ルクラという小さな村で待機していると、嫌でも飛行機が飛ぶ飛ばないがわかってしまう。飛行機がカトマンズを出るとルクラ村でサイレンが鳴る。小一時間ほどで谷の遥か遠くに機影が見える。あぁ来たなと思っていると、Uターンして引き返してしまう。やがてルクラ村に空港からのお知らせが響く。
      「Today NO FLIGHT!  Everyone bring your baggage and go home!!!」
      今日は飛ばないよ、みんな荷物持って帰ってね! と言われるわけである。これが連日のように続く。聞けばインドとの関係が悪化し、飛行機の燃料が入って来なくなっているのだという。飛行機を待っている人たちの中からは、毎日十数人あるいはもっと多くが、あきらめて徒歩での下山を選び村を去っていく。我々のウェイティングナンバーは次第に繰り上がって行き、ついに3番まで上がった。しかし飛行機は来ない……。来てもあらかじめその日のチケットを持っている人が最優先なので、ウェイティングの人に席はない。

      この待っている間に特筆すべきことが一つだけあった。メラピークの登山隊を率いていた田部井淳子さんにお会いしたのである。何にも持っていなくてサインもしてもらえなかったが。田部井さんは我々が航空券を手配した会社に、カトマンズに戻ったら連絡してみてあげると言ってくださった。そしてすいーっと、カトマンズに飛んで行かれた。
      飛行機はまったく飛ばないわけではない。その日のチケットさえあれば乗れることもあるのだが、もしその日乗れなければ、ウェイティングリストの最後尾につくことになってしまう。飛行機というものはややこしいものだ。

      徒歩で下るきっかけを失い、今さら歩き出しても絶対にその日か翌日に頭上を飛行機が飛んでいくだろうと思うと、決断できなかった。毎日ザックを背負って空港に行き、「Everyone go home!」の放送を聞き、今夜の宿を求めて彷徨う。そんなことを続けていた。待って待って11日が過ぎた。
      その日の夕方、日課となっている空港事務所でのウェイティング点呼に顔を出すと、皆が沸き立っている。何々? と訊くと、明日、飛行機が飛ぶらしいという情報があるらしかった。みんな喜び、その日は村のバレーボールコートで、国際親善大会が開かれたほどである。私はバレーボールがからきしダメなので観ていただけだったが、友人はけっこう上手で、イギリス隊に入れてもらって楽しんでいた。

      翌朝、ルクラ村にサイレンが響く。カトマンズを飛行機が出た知らせだ。もうとっくに飛行場に待機していた我々も期待に胸がふくらむ。今日こそは乗れそうな雰囲気なのだ。
      なんせカトマンズからルクラへも殆ど飛ばない状態だから、山に入って来る人間も限られる。2機飛んでくれれば、我々の席はありそうだった。空港にはその時ルクラに居た全員がたぶん集まっていた。
      飛行機が来た。まず1機、続けてもう1機。西洋人トレッカーたちが下りてくる。そして大量の機材のようなものも下ろされる。乗っている人よりも機材が多いように見える。そんな中、ついに我々のウェイティングナンバーがコールされ、ボーディングパスをもらった。
      やったー!
      大急ぎで自分たちのザックを持って飛行機に近づき、荷物を載せてもらい、自分たちも乗る。機内はウェイティングの人たちで一杯になり、みんな大騒ぎでハイタッチしまくっている。飛行機はすぐに空港の滑走路から谷に向かって突っ込んで行き、前方の崖にぶつかるじゃないかと目をつぶるタイミングでふいーんと左に機首を振り、谷の中をしばらく飛んでから上に出る。小一時間のフライトでカトマンズに戻った。
      市内も燃料不足でタクシーがおらず、同乗していたイギリス人カップルとシェアして何とか電プーをつかまえてタメルに直行した。カップルの片方スーザンが「kill Nepali!」と興奮のあまり絶叫し続けるのでさすがにびびった。

      その日、ルクラへは7便が飛んだと後で聞いた。ルクラで溜まっていた人は全員下りられたそうだ。そしてその、7便飛ばした神は、ラインホルト・メスナー氏だったというのだから驚いた。どこかのエクスペディションだったのだろう。

      そんなこんなの、ネパールの旅だった。

      余談~アキラのその後

      ルクラに飛んだ時、あぁアキラはもうバンコクか、数日バンコクにいて「お姉ちゃんたち」を遊ばせてから帰国すると言っていたから、自分がタンボチェに着く頃は日本だな。などと考えていた。
      ところが、である。
      アキラはバンコクに飛ぶ飛行機の中でたいそう具合が悪くなり、トイレの中から緊急ボタンを押すほどだったという。そのまま機内のどこかに運ばれて横にされ、伝染病の危険があるとのことで到着後も彼は普通に機内から出ることはなかった。救急車が横付けされて、そこに移され、入国も何もあったもんではなくそのまま病院に搬送された。
      彼はコレラと赤痢を発症していた。かなり重症だったらしく、バンコクに半月以上いたそうだ。
      絶対に、私と食べた日本食が原因だと確信した彼は、「俺はバンコクだからいいけどゴトーは山に入っちゃったから病院もなくて苦しんでいるだろう、大丈夫かな……」と心配してくれていたそうだ。私はピンピンして山を歩いていたのだから、原因はあの日本食ではないと思う。

      帰国してその話を彼から聞いた。
      「ねぇ、で、お姉ちゃんたちはどうしたの?」
      「わからない、俺、お姉ちゃんたちに何か言うこともできずに別れた」
      「無事に帰国したよねぇ?」
      「そりゃそうだろ、行方不明とか死んだとかのニュースは見てない」
      「ていうかバイト先に聞いてないの?」
      「聞いてない、あれっきり連絡してないんだよ俺」
      まじか。バイト代もらったのか。

      そんなアキラであるが、実は私の長い旅の人間関係の中で、生き残っているのは彼くらいのものだ。他はみんないつの間にか切れてしまった。お互いの結婚式に出席しあったという稀有の仲。いつかもっと歳を取ったら、昔話をしてみたい。

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        再びネパール、ランタン谷へ

        コルカタからカトマンズへは飛行機で。パラゴンに泊っていた2人の男性がたまたま同じ便で、一緒に動いた。カトマンズに到着すると夜だった。まばらなオレンジ色の灯りが点々と見える風景が懐かしく、戻ってきたなと思った。インドはとにかくうるさく忙しなく常に緊張を強いられた。その点ネパールはのんびりしているし、町も小さくそして外国人に慣れているので目立つ感じがしなくて楽だった。

        デリーで知り合った人に聞いたゲストハウスに行ってみた。タメル地区からは離れており、外国人向けのものが何もないエリアにあった。そこの管理人は流ちょうな日本語を話す。そこは日本の登山隊がよく現地基地として使う場所らしかった。
        数人の日本人とそこで出会った。年齢的にも近く、旅は初めてとか、2回目とか、そんな感じの人たちだった。私に対して支配的になろうとすることがなく、この時のネパール&インドで初めてまともな人たちに会ったと思った。

        今はどうだかわからないが、昔は旅をしているとしょうもない男ばかりに出会ったものだ。「何年も旅をしている」「インドには5回来ている」「俺は旅慣れている」「お前は危なっかしい、すぐに帰国しろ」「そもそも何で旅になんか来たの、自分のレベル分かってる?」的な! そういう男がゴロゴロしていた。一人旅の女性どうしで話をすれば、大抵そういうクソ野郎の話になり、みんな同じような目に遭っていた。
        今ならわかるような気がする。日本では誰からも敬意を払ってもらえない、おそらくは仕事もできない男たちが、旅に出て若い子を見つけてはマウントを取っていた、のだろう。
        インターネット時代になって、それは変わっただろうか? 50代の私に「自分のレベル分かってる?」と突っかかって来る奴はさすがにいない、だろうか。いやいるかな。「悪いこと言わないからこのまま帰りなよおばちゃん」とか言われたりして(^^;

        ボダナート寺院。カトマンズの中心からは少し外れた場所にあるチベット寺だ。周辺にはたくさんのチベット人が住んでいる。元々いた人と、亡命者もいると思う。

        バター灯明

        ストゥーパの周囲は露店になっており、仏具やアクセサリーなどが売られていた。

        ランタン谷へ

        そのゲストハウスで知り合った人たちと、3人でランタン谷へ行くことになった。ランタンはカトマンズから最も近いトレッキングルートで、出発点までバスで行くことができる。当時のバスの最終地点はドゥンチェという村。ここまで10時間ほどかけて行った。

        ドゥンチェで1泊し、翌日から歩き出した。最初は車道を行く。途中から右へ分け入る細道があり、最初そこがわからなくてかなり通り過ぎ、人に訊いて戻ったりした。

        こんな感じの車道を行く。中国国境まで続くチャイナロードだ。中国がお金を出して作っているのだろうと思う。当時は軍用車両しか通行していなかった。

        手製の木の車に子どもを載せて引っ張っているお父さん

        手製の腰機でウールを織っていた。ヤギや羊やヤクに荷物を載せる時に、ウールでかっちり織られた袋に入れて括りつけているのをよく見た。

        たどり着いた稜線上の村シャブルベンシで、歌う子どもたち

        チベット仏教の旗のようなものが家の屋根に翻っている

        ふざけてポーズを取ってくれている友人。当時のトイレはこんな感じ、あるだけすばらしい(ない所も多かった)

         

        次の日泊ったバンブーハウスという集落。数軒あるだけの集落だった。数年後に水害で村全体が流され、今はまったく別の村になっている。
        この時はトレッカーも少なく、みんな穏やかな雰囲気だったが、2年後に訪ねた時にはずいぶん歩く人が増え、みんな険しい顔でいたっけ。

        土地の人は燃えている薪でも手でつかめる!

        名前のない集落の家に泊った。「お茶ノム ベリオイシ」が口癖のおじさんは足の指が6本あった。他に客もなく、チャン(地酒)を飲んで皆で酔っぱらった。翌朝清算しようとすると、お茶が100杯とかになっていて、「さすがにそれはないだろ!」と大笑いした。話し合って支払った。

        因みにこの当時のトレッキングルートの宿泊代は5ルピーとかそんな程度。その代わりにそこで食事をすることが暗黙のルールだった。特にこの頃は、レストランなどあるわけがなく、泊まる小屋で食べる以外の選択肢はなかった。

        おそらくここが最終到達地点。ランタンという村までは行かなかった。同行したうちの一人がインドに行く日程が決まっていたので。私もピークハンターではないから、途中で切り上げることに異論はなかった。写っているのがランタン・リ・ルン。ランタンの主峰だと思う。

        こんな小さな女の子がトレッキング部隊に働き手として参加していた。炊事場の下働きだ。さすがにとんでもない荷物を担いではいなかったが、このリュックだって軽くはないだろう。食器や鍋を川に持って行き、砂でピカピカになるまで磨き上げていた。全部の片付けが済んだらこの出で立ちになって先行するトレッカーたちやポーターたちを追い抜き、次のテント場に先乗りして炊事を始める。えらいものだ。自分がこの子の年の頃には、ただ幼稚園か小学校に行って遊んでいただけだった。

        シャブルベンシだと思う。農家の屋上が物干し場になっており、収穫した豆などもここで干したり鞘から出す作業などしていた。

        おそるおそる、子どもを抱っこさせてもらっている

        ランタン谷から戻り、3人はばらばらになった。自分たちの元の旅に戻った。私はタメル地区に行き、ゲストハウスを探して落ち着いた。出国までの数日の間に、夢を見た。私は小坊主で、誰か大人の坊さんの後ろについて、山道を歩いていた。どこまでもどこまでも続く山道だった。ただただ歩いていた。

        ランタン谷のトレッキングは1週間ほどだった。気のいい仲間との同行で、それまでのたくさんの嫌なことがずいぶん遠くに押しやられた。
        彼らとは帰国後しばらく、特に内1人とは20年ほど前までは連絡が取れていたのだが、今は当時の誰ともつながっていない。

        帰国

        カトマンズからバンコクに飛んだのは12月24日。ハーゲンダッツのアイスが特別に出てきて喜んだ。バンコクではカトマンズで出会った人に聞いたゲストハウスに。この頃はカオサンが出来始めた頃で、この時の私は足を運んでいない。
        エジプトエアーの事務所に足を運んだり(成田への帰国便がここだった)、同宿している人とご飯を食べに行ったりした。

        28日の夜、空港に向かった。私のチケットは怪しいコンファームチケットだった。
        一度カトマンズでコンファームのシールを貼ってもらったが、その時も「これは一時的なものだからさらに確認せよ」と言われ、その後デリーやコルカタ、そしてカトマンズでも確認すると悉く「ウェイティングリスト」と言われてしまった。
        ウェイティングリストのシールとコンファームのシールが同居しているチケットなのだった。バンコクでもそれは変わらず、ウェイティングのまま空港に行けと言われた。

        空港のカウンターはごった返していた。オーバーブッキングが発生しているのか、大勢の白人が騒いでいた。受付業務は停止しているようだった。それでも自分もウェイティングしているということは告げなければいけないだろうと思い、カウンターに近づこうとすると、ちょうど1人のタイ人スタッフが足早に出てきた。私はその人をつかまえて、「成田行き? 私もウェイティングです!」と声をかけた。スタッフは困り顔で「今ちょっと……、えぇとチケットは?」と、ともかく対応してくれそうだったのでチケットを挟んだパスポートごと彼に渡した。
        「あぁこれは、えぇとコンファームしたのはいつ? その後ウェイティングに?」
        「私にもわからんけど、コンファームできたはずなんだけど」
        「でも新しい情報はウェイティングですね……、今たくさんの人がウェイティングしていて、可能性は殆どないかと……」
        スタッフは一応という感じでパスポートも開いて見た。あるいはタイの滞在期限を見ようとしたのかもしれない。
        そこには、最後にカウンターで支払う「タイ出国税」用に、バーツの紙幣を挟んでいた。当時はそんな風に出国税は自分で支払うシステムだったのだ。絶対に残しておかなければならないバーツとして、500くらいを挟んでいたと思う。スタッフがそれに目を止め、ふと私を見つめ、次の瞬間に

        「本日のコンファームチケットをお持ちでございますね! こちらにどうぞ!」
        と今自分が出てきたカウンター内に戻り、目にもとまらぬ早業で私のボーディングパスを発券した。カウンターの前に陣取って他の人を行かせまいとしていた白人たちが当然文句を言ってくる。
        「こちらの方はコンファーム、OKチケットをお持ちです!」
        スタッフが白人たちに見せたチケットには、コンファーム・シールしか残っていなかった。まったく意図しなかったが、できる奴に当たったのだった。もちろん戻されたパスポートに、500バーツ紙幣は残っていなかった。

        そんな風にして乗り込んだその年最後のエジプト航空成田行き。ガラガラだった。何だこれならウェイティングの人たちも全員乗れたんじゃないかと思った。
        エジプト航空はマニラを経由する。乗客は下りることなく機内で待機する。すると、乗ってくるわくるわ、たくさんのフィリピーナたちが乗り込んできて、あっという間に満席になった。バンコクでは空席があってもマニラからは満席、そういうフライトだったのだ。ジャパゆきさん、という言葉が生きていた時代である。

        こうして3か月半の旅が終わった。この旅には苦い記憶もたくさんある。自分の未熟さが招いた一歩間違えれば、というやばいこともあった。それでもそれらをすり抜けて、無事に戻れたことを喜びたい。
        自分に何の落ち度がなくても、誰か悪い奴にターゲットにされれば逃れることはできないのが旅だと思う。そういう悲しい事件をたくさん見聞きしてきたし、表に出ないことはもっとあるだろう。自分はとにかく無事だった。私は無信仰だが、何者かに感謝したいと思う。この頃の私を守ってくれてありがとう。

         

         

         

         

          カテゴリー: 1988ネパール&インドぐるぐる | コメントする

          初インドは陸路で 1988年11月

          ネパールに入ってから1か月半近くが経った。ポカラは小さめでいい町だったと思う。アンナプルナでの初めてのトレッキングも、問題は多々あったものの何とか無事に終えることができた。ただ自分の体力のなさにかなり驚いたのも事実で、今回はエベレスト街道は諦めようかと弱気になった。
          とはいえ、ではこのまま帰るのか、と思うともったいない気がしてならなかった。特に何か用事があるわけでもなく、帰国を急ぐ理由がない。就職する気はとっくに失せており、何となくこのままもう少し時間を潰したかった。

          それならインドに行こう、と思った。
          カトマンズの古本屋で、何人もの旅人が使ったであろう5年ほど前の『地球の歩き方インド編』を購入した。インドに行く予定は全くなかったので、何の事前知識もない。ボロボロでいたずら書きだらけで地図が破り取られたこのガイドブックだけで、インドに行こうとした。
          カトマンズでビザを取った。ややこしかったが時間さえかければ取れた。
          カトマンズからだとバラナシ(ベナレス)に向かうのが一般的なようだったので、バスのチケットを購入した。カトマンズを夕方4時に出て、バラナシに翌日の夕方着く。ほぼ24時間かかるバス移動になる。
          荷物の半分くらい(寝袋やダウンジャケットやトレッキング関連のもの)をカトマンズの宿に預けて、インドに向かった。

          インドへのバス移動

          出発は、そんなに極端に遅れたりはしなかったと思う。4時か4時半頃にはバスはカトマンズのバスターミナルを出たはずだ。
          やがて日が暮れて、バスはひたすら山道を走る。どこをどう走っているのかまったくわからない。闇夜の中をひた走る。全体的には下っているように思う。まぁそうだろう、カトマンズは標高1500ほどの高原都市、インド平野へぐんぐん下りていくのだから。

          夜が明けた。バスは平野部に下りたようで、平坦な道をどんどんというかのろのろというか、とにかく進んでいた。そして国境に着いた。
          ネパールの出国はあっけなく簡単だった。
          インドの入国はトラブると散々ガイドブックに書いてあったので慎重に向かったが、こちらもあっさりと入国できた。
          バスはここで乗り換えになる。インド側のバスが既に来ており、乗り込んだ。
          因みに乗客のほとんどはインド人かネパール人。外国人は私とフランス人のいかれた兄さんの2人だった。このいかれた兄さんがインドのイミグレでトラブり、かなりの時間待たされた。そして結局、この兄さんは国境に置いて行かれることになった。ヤクか何か持っていたか、形跡があったか、単に難癖をつけられたか、そのどれかだろうが私にはわからない。

          国境。どちら側かはもう覚えていない。ネパールを抜けてインドへの緩衝地帯の入り口かもしれない。フランスの兄さんに撮ってもらった。

          さて。バスは再び走り出した。昼を過ぎ、午後を過ぎ、とにかく走り続ける。時々はどこかに止まって、人が乗り降りしたりトイレ休憩だったりしたとは思う。出発から24時間が過ぎてもバスはどこにも着かなかった。大平原の向こうに赤い小さなボールのような太陽が沈んでいくのを見ながら、遠くまで来たなと思った。

          真っ暗になってもバスはどこにも着かない。8時頃に食事休憩があったと思う。一体いつになったら到着するのか、運転手に訊いてもわからないふりをする。
          とにかく疲れた。中国で何日もかかるバスに乗ったことはあるが、日中走って夜は宿に泊まるスタイルだった。こんなに乗りっぱなしで20時間以上というのは経験がなかった。

          バスがそれらしき場所に着いたのは、深夜1時過ぎだった。33時間と少しかかったことになる。やれやれとバスを下りてさらに驚いたのだが、そこはバス駅でも何でもないただの道端だった。今ならグーグルマップやマップスミーといったアプリで自分の現在位置が確認できるかもしれない。当時そんなものがあるわけがなく、そこが本当にバラナシなのか、ということすらわからないのだ。
          リキシャが大勢バスを囲んでいて、暗闇の中で彼らの白い歯がカタカタと揺れていた。いやこちらが揺れていたのか。
          「いちばん近くのホテル」と連呼して、とにかく近場のホテルに走ってもらった。値段がいくらであっても、最初に見つけた宿に泊まるしかないと思った。幸い、ものの数分で一応電光看板のあるホテルが見つかり、部屋もあった。リキシャを帰し、お金を払った。
          「ところでここはどこですか、バラナシですか?」
          と、女主人に訊いた。
          「あなたはどこに行くところなの? ここはバラナシよ」
          よかった……、と思った。

          バラナシ

          バスが着いたのは列車駅に近いエリアだったようだ。バラナシではガンジス川のほとりにゲストハウスなどが集中している。翌朝、そのエリアにリキシャで動いた。どうせもめくり返ったのだろうが、記憶にはない。インドでもめずにリキシャに乗れることなどまずない。

          久美子ハウスという日本人が経営する宿にまず行ってみた。ここに3泊ほどしたと思う。その間にディワリという祭りがあり、夜、町はさながら市街戦のようにロケット花火が飛び交った。きれいとかそういう話ではない。ロケット花火が建物に向かって発射されるので、ドガンドガンとひっきりなしに衝撃があり、建物が揺れるほどだった。
          久美子ハウスにいる日本人はどいつもこいつも葉っぱ吸いだった。私は煙が苦手でタバコも吸えないので、葉っぱも吸えない。するとバカにされる。うんざりして宿を移った。移った先も似たようなもので、インドに来る旅行者は葉っぱを吸わなきゃいかんのか、というくらいにほぼ全員が葉っぱ吸いだったと思う。体質的に煙が吸い込めない人間もいるということくらい理解しやがれと思っていた若き日の自分だった。

          日の出を見るボートに乗った。ボートはたくさん出ていて、ちょうど今、日が昇ったところだ。
          88年の11月3日。
          川にはたくさんのゴミが流れていた。ちょうど布のようなものが流れてきて、船頭がオールでちょいと突いて向こうへ押しやった。そして「子どもだよ」と言った。

          お清め中の人々。けっこう肌寒かったと記憶しているが、皆さん果敢に水に漬かっていた。

          この、段々になっているお清めの場所をガートと呼ぶ。〇〇ガート、と各所に名前がある。バラナシには2週間ほどいたと思う。路地を歩き、ガートに出て座ってぼんやりし、また路地を歩く。そんなことを繰り返していた。

          おそらくバラナシ、祭りではないかと思う

          ネパールへ戻る

          バラナシからはデリーへ行ってみた。切符を買いに行くと、窓口に並んでいる列の最後の人が私に気付き、「どうぞ先へ」と言う。するとその前の人も前の人も、と、全員が私を先に行かせてくれるのだ。並んでいるのはすべて男性。この頃は、女性を先に行かせるという決まりがあったらしい。中国とはえらい違いだ。切符もすんなり買えた。
          デリーにも何だかんだで10日ほどはいたか。駅前のパハルガンジの安宿に泊まってぶらぶらしていた。知り合った日本の男性がビールを買って歩いていたらインド人にボコボコにされた、というのが最大の出来事だった。
          デリーからコルカタへ飛行機で飛び(カトマンズへ直接は飛べなかったからだったと記憶する)、コルカタのサダルストリートの救世軍に泊った。1泊だけでパラゴンへ動いた。パラゴンに2泊して、カトマンズへ飛んだ。

           

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