初インドは陸路で 1988年11月

2021年12月18日

ネパールに入ってから1か月半近くが経った。ポカラは小さめでいい町だったと思う。アンナプルナでの初めてのトレッキングも、問題は多々あったものの何とか無事に終えることができた。ただ自分の体力のなさにかなり驚いたのも事実で、今回はエベレスト街道は諦めようかと弱気になった。
とはいえ、ではこのまま帰るのか、と思うともったいない気がしてならなかった。特に何か用事があるわけでもなく、帰国を急ぐ理由がない。就職する気はとっくに失せており、何となくこのままもう少し時間を潰したかった。

それならインドに行こう、と思った。
カトマンズの古本屋で、何人もの旅人が使ったであろう5年ほど前の『地球の歩き方インド編』を購入した。インドに行く予定は全くなかったので、何の事前知識もない。ボロボロでいたずら書きだらけで地図が破り取られたこのガイドブックだけで、インドに行こうとした。
カトマンズでビザを取った。ややこしかったが時間さえかければ取れた。
カトマンズからだとバラナシ(ベナレス)に向かうのが一般的なようだったので、バスのチケットを購入した。カトマンズを夕方4時に出て、バラナシに翌日の夕方着く。ほぼ24時間かかるバス移動になる。
荷物の半分くらい(寝袋やダウンジャケットやトレッキング関連のもの)をカトマンズの宿に預けて、インドに向かった。

インドへのバス移動

出発は、そんなに極端に遅れたりはしなかったと思う。4時か4時半頃にはバスはカトマンズのバスターミナルを出たはずだ。
やがて日が暮れて、バスはひたすら山道を走る。どこをどう走っているのかまったくわからない。闇夜の中をひた走る。全体的には下っているように思う。まぁそうだろう、カトマンズは標高1500ほどの高原都市、インド平野へぐんぐん下りていくのだから。

夜が明けた。バスは平野部に下りたようで、平坦な道をどんどんというかのろのろというか、とにかく進んでいた。そして国境に着いた。
ネパールの出国はあっけなく簡単だった。
インドの入国はトラブると散々ガイドブックに書いてあったので慎重に向かったが、こちらもあっさりと入国できた。
バスはここで乗り換えになる。インド側のバスが既に来ており、乗り込んだ。
因みに乗客のほとんどはインド人かネパール人。外国人は私とフランス人のいかれた兄さんの2人だった。このいかれた兄さんがインドのイミグレでトラブり、かなりの時間待たされた。そして結局、この兄さんは国境に置いて行かれることになった。ヤクか何か持っていたか、形跡があったか、単に難癖をつけられたか、そのどれかだろうが私にはわからない。

国境。どちら側かはもう覚えていない。ネパールを抜けてインドへの緩衝地帯の入り口かもしれない。フランスの兄さんに撮ってもらった。

さて。バスは再び走り出した。昼を過ぎ、午後を過ぎ、とにかく走り続ける。時々はどこかに止まって、人が乗り降りしたりトイレ休憩だったりしたとは思う。出発から24時間が過ぎてもバスはどこにも着かなかった。大平原の向こうに赤い小さなボールのような太陽が沈んでいくのを見ながら、遠くまで来たなと思った。

真っ暗になってもバスはどこにも着かない。8時頃に食事休憩があったと思う。一体いつになったら到着するのか、運転手に訊いてもわからないふりをする。
とにかく疲れた。中国で何日もかかるバスに乗ったことはあるが、日中走って夜は宿に泊まるスタイルだった。こんなに乗りっぱなしで20時間以上というのは経験がなかった。

バスがそれらしき場所に着いたのは、深夜1時過ぎだった。33時間と少しかかったことになる。やれやれとバスを下りてさらに驚いたのだが、そこはバス駅でも何でもないただの道端だった。今ならグーグルマップやマップスミーといったアプリで自分の現在位置が確認できるかもしれない。当時そんなものがあるわけがなく、そこが本当にバラナシなのか、ということすらわからないのだ。
リキシャが大勢バスを囲んでいて、暗闇の中で彼らの白い歯がカタカタと揺れていた。いやこちらが揺れていたのか。
「いちばん近くのホテル」と連呼して、とにかく近場のホテルに走ってもらった。値段がいくらであっても、最初に見つけた宿に泊まるしかないと思った。幸い、ものの数分で一応電光看板のあるホテルが見つかり、部屋もあった。リキシャを帰し、お金を払った。
「ところでここはどこですか、バラナシですか?」
と、女主人に訊いた。
「あなたはどこに行くところなの? ここはバラナシよ」
よかった……、と思った。

バラナシ

バスが着いたのは列車駅に近いエリアだったようだ。バラナシではガンジス川のほとりにゲストハウスなどが集中している。翌朝、そのエリアにリキシャで動いた。どうせもめくり返ったのだろうが、記憶にはない。インドでもめずにリキシャに乗れることなどまずない。

久美子ハウスという日本人が経営する宿にまず行ってみた。ここに3泊ほどしたと思う。その間にディワリという祭りがあり、夜、町はさながら市街戦のようにロケット花火が飛び交った。きれいとかそういう話ではない。ロケット花火が建物に向かって発射されるので、ドガンドガンとひっきりなしに衝撃があり、建物が揺れるほどだった。
久美子ハウスにいる日本人はどいつもこいつも葉っぱ吸いだった。私は煙が苦手でタバコも吸えないので、葉っぱも吸えない。するとバカにされる。うんざりして宿を移った。移った先も似たようなもので、インドに来る旅行者は葉っぱを吸わなきゃいかんのか、というくらいにほぼ全員が葉っぱ吸いだったと思う。体質的に煙が吸い込めない人間もいるということくらい理解しやがれと思っていた若き日の自分だった。

日の出を見るボートに乗った。ボートはたくさん出ていて、ちょうど今、日が昇ったところだ。
88年の11月3日。
川にはたくさんのゴミが流れていた。ちょうど布のようなものが流れてきて、船頭がオールでちょいと突いて向こうへ押しやった。そして「子どもだよ」と言った。

お清め中の人々。けっこう肌寒かったと記憶しているが、皆さん果敢に水に漬かっていた。

この、段々になっているお清めの場所をガートと呼ぶ。〇〇ガート、と各所に名前がある。バラナシには2週間ほどいたと思う。路地を歩き、ガートに出て座ってぼんやりし、また路地を歩く。そんなことを繰り返していた。

おそらくバラナシ、祭りではないかと思う

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バラナシからはデリーへ行ってみた。切符を買いに行くと、窓口に並んでいる列の最後の人が私に気付き、「どうぞ先へ」と言う。するとその前の人も前の人も、と、全員が私を先に行かせてくれるのだ。並んでいるのはすべて男性。この頃は、女性を先に行かせるという決まりがあったらしい。中国とはえらい違いだ。切符もすんなり買えた。
デリーにも何だかんだで10日ほどはいたか。駅前のパハルガンジの安宿に泊まってぶらぶらしていた。知り合った日本の男性がビールを買って歩いていたらインド人にボコボコにされた、というのが最大の出来事だった。
デリーからコルカタへ飛行機で飛び(カトマンズへ直接は飛べなかったからだったと記憶する)、コルカタのサダルストリートの救世軍に泊った。1泊だけでパラゴンへ動いた。パラゴンに2泊して、カトマンズへ飛んだ。