再びネパール、ランタン谷へ

コルカタからカトマンズへは飛行機で。パラゴンに泊っていた2人の男性がたまたま同じ便で、一緒に動いた。カトマンズに到着すると夜だった。まばらなオレンジ色の灯りが点々と見える風景が懐かしく、戻ってきたなと思った。インドはとにかくうるさく忙しなく常に緊張を強いられた。その点ネパールはのんびりしているし、町も小さくそして外国人に慣れているので目立つ感じがしなくて楽だった。

デリーで知り合った人に聞いたゲストハウスに行ってみた。タメル地区からは離れており、外国人向けのものが何もないエリアにあった。そこの管理人は流ちょうな日本語を話す。そこは日本の登山隊がよく現地基地として使う場所らしかった。
数人の日本人とそこで出会った。年齢的にも近く、旅は初めてとか、2回目とか、そんな感じの人たちだった。私に対して支配的になろうとすることがなく、この時のネパール&インドで初めてまともな人たちに会ったと思った。

今はどうだかわからないが、昔は旅をしているとしょうもない男ばかりに出会ったものだ。「何年も旅をしている」「インドには5回来ている」「俺は旅慣れている」「お前は危なっかしい、すぐに帰国しろ」「そもそも何で旅になんか来たの、自分のレベル分かってる?」的な! そういう男がゴロゴロしていた。一人旅の女性どうしで話をすれば、大抵そういうクソ野郎の話になり、みんな同じような目に遭っていた。
今ならわかるような気がする。日本では誰からも敬意を払ってもらえない、おそらくは仕事もできない男たちが、旅に出て若い子を見つけてはマウントを取っていた、のだろう。
インターネット時代になって、それは変わっただろうか? 50代の私に「自分のレベル分かってる?」と突っかかって来る奴はさすがにいない、だろうか。いやいるかな。「悪いこと言わないからこのまま帰りなよおばちゃん」とか言われたりして(^^;

ボダナート寺院。カトマンズの中心からは少し外れた場所にあるチベット寺だ。周辺にはたくさんのチベット人が住んでいる。元々いた人と、亡命者もいると思う。

バター灯明

ストゥーパの周囲は露店になっており、仏具やアクセサリーなどが売られていた。

ランタン谷へ

そのゲストハウスで知り合った人たちと、3人でランタン谷へ行くことになった。ランタンはカトマンズから最も近いトレッキングルートで、出発点までバスで行くことができる。当時のバスの最終地点はドゥンチェという村。ここまで10時間ほどかけて行った。

ドゥンチェで1泊し、翌日から歩き出した。最初は車道を行く。途中から右へ分け入る細道があり、最初そこがわからなくてかなり通り過ぎ、人に訊いて戻ったりした。

こんな感じの車道を行く。中国国境まで続くチャイナロードだ。中国がお金を出して作っているのだろうと思う。当時は軍用車両しか通行していなかった。

手製の木の車に子どもを載せて引っ張っているお父さん

手製の腰機でウールを織っていた。ヤギや羊やヤクに荷物を載せる時に、ウールでかっちり織られた袋に入れて括りつけているのをよく見た。

たどり着いた稜線上の村シャブルベンシで、歌う子どもたち

チベット仏教の旗のようなものが家の屋根に翻っている

ふざけてポーズを取ってくれている友人。当時のトイレはこんな感じ、あるだけすばらしい(ない所も多かった)

 

次の日泊ったバンブーハウスという集落。数軒あるだけの集落だった。数年後に水害で村全体が流され、今はまったく別の村になっている。
この時はトレッカーも少なく、みんな穏やかな雰囲気だったが、2年後に訪ねた時にはずいぶん歩く人が増え、みんな険しい顔でいたっけ。

土地の人は燃えている薪でも手でつかめる!

名前のない集落の家に泊った。「お茶ノム ベリオイシ」が口癖のおじさんは足の指が6本あった。他に客もなく、チャン(地酒)を飲んで皆で酔っぱらった。翌朝清算しようとすると、お茶が100杯とかになっていて、「さすがにそれはないだろ!」と大笑いした。話し合って支払った。

因みにこの当時のトレッキングルートの宿泊代は5ルピーとかそんな程度。その代わりにそこで食事をすることが暗黙のルールだった。特にこの頃は、レストランなどあるわけがなく、泊まる小屋で食べる以外の選択肢はなかった。

おそらくここが最終到達地点。ランタンという村までは行かなかった。同行したうちの一人がインドに行く日程が決まっていたので。私もピークハンターではないから、途中で切り上げることに異論はなかった。写っているのがランタン・リ・ルン。ランタンの主峰だと思う。

こんな小さな女の子がトレッキング部隊に働き手として参加していた。炊事場の下働きだ。さすがにとんでもない荷物を担いではいなかったが、このリュックだって軽くはないだろう。食器や鍋を川に持って行き、砂でピカピカになるまで磨き上げていた。全部の片付けが済んだらこの出で立ちになって先行するトレッカーたちやポーターたちを追い抜き、次のテント場に先乗りして炊事を始める。えらいものだ。自分がこの子の年の頃には、ただ幼稚園か小学校に行って遊んでいただけだった。

シャブルベンシだと思う。農家の屋上が物干し場になっており、収穫した豆などもここで干したり鞘から出す作業などしていた。

おそるおそる、子どもを抱っこさせてもらっている

ランタン谷から戻り、3人はばらばらになった。自分たちの元の旅に戻った。私はタメル地区に行き、ゲストハウスを探して落ち着いた。出国までの数日の間に、夢を見た。私は小坊主で、誰か大人の坊さんの後ろについて、山道を歩いていた。どこまでもどこまでも続く山道だった。ただただ歩いていた。

ランタン谷のトレッキングは1週間ほどだった。気のいい仲間との同行で、それまでのたくさんの嫌なことがずいぶん遠くに押しやられた。
彼らとは帰国後しばらく、特に内1人とは20年ほど前までは連絡が取れていたのだが、今は当時の誰ともつながっていない。

帰国

カトマンズからバンコクに飛んだのは12月24日。ハーゲンダッツのアイスが特別に出てきて喜んだ。バンコクではカトマンズで出会った人に聞いたゲストハウスに。この頃はカオサンが出来始めた頃で、この時の私は足を運んでいない。
エジプトエアーの事務所に足を運んだり(成田への帰国便がここだった)、同宿している人とご飯を食べに行ったりした。

28日の夜、空港に向かった。私のチケットは怪しいコンファームチケットだった。
一度カトマンズでコンファームのシールを貼ってもらったが、その時も「これは一時的なものだからさらに確認せよ」と言われ、その後デリーやコルカタ、そしてカトマンズでも確認すると悉く「ウェイティングリスト」と言われてしまった。
ウェイティングリストのシールとコンファームのシールが同居しているチケットなのだった。バンコクでもそれは変わらず、ウェイティングのまま空港に行けと言われた。

空港のカウンターはごった返していた。オーバーブッキングが発生しているのか、大勢の白人が騒いでいた。受付業務は停止しているようだった。それでも自分もウェイティングしているということは告げなければいけないだろうと思い、カウンターに近づこうとすると、ちょうど1人のタイ人スタッフが足早に出てきた。私はその人をつかまえて、「成田行き? 私もウェイティングです!」と声をかけた。スタッフは困り顔で「今ちょっと……、えぇとチケットは?」と、ともかく対応してくれそうだったのでチケットを挟んだパスポートごと彼に渡した。
「あぁこれは、えぇとコンファームしたのはいつ? その後ウェイティングに?」
「私にもわからんけど、コンファームできたはずなんだけど」
「でも新しい情報はウェイティングですね……、今たくさんの人がウェイティングしていて、可能性は殆どないかと……」
スタッフは一応という感じでパスポートも開いて見た。あるいはタイの滞在期限を見ようとしたのかもしれない。
そこには、最後にカウンターで支払う「タイ出国税」用に、バーツの紙幣を挟んでいた。当時はそんな風に出国税は自分で支払うシステムだったのだ。絶対に残しておかなければならないバーツとして、500くらいを挟んでいたと思う。スタッフがそれに目を止め、ふと私を見つめ、次の瞬間に

「本日のコンファームチケットをお持ちでございますね! こちらにどうぞ!」
と今自分が出てきたカウンター内に戻り、目にもとまらぬ早業で私のボーディングパスを発券した。カウンターの前に陣取って他の人を行かせまいとしていた白人たちが当然文句を言ってくる。
「こちらの方はコンファーム、OKチケットをお持ちです!」
スタッフが白人たちに見せたチケットには、コンファーム・シールしか残っていなかった。まったく意図しなかったが、できる奴に当たったのだった。もちろん戻されたパスポートに、500バーツ紙幣は残っていなかった。

そんな風にして乗り込んだその年最後のエジプト航空成田行き。ガラガラだった。何だこれならウェイティングの人たちも全員乗れたんじゃないかと思った。
エジプト航空はマニラを経由する。乗客は下りることなく機内で待機する。すると、乗ってくるわくるわ、たくさんのフィリピーナたちが乗り込んできて、あっという間に満席になった。バンコクでは空席があってもマニラからは満席、そういうフライトだったのだ。ジャパゆきさん、という言葉が生きていた時代である。

こうして3か月半の旅が終わった。この旅には苦い記憶もたくさんある。自分の未熟さが招いた一歩間違えれば、というやばいこともあった。それでもそれらをすり抜けて、無事に戻れたことを喜びたい。
自分に何の落ち度がなくても、誰か悪い奴にターゲットにされれば逃れることはできないのが旅だと思う。そういう悲しい事件をたくさん見聞きしてきたし、表に出ないことはもっとあるだろう。自分はとにかく無事だった。私は無信仰だが、何者かに感謝したいと思う。この頃の私を守ってくれてありがとう。