前年の暮れに帰国してから3か月も経たないうちに、再びネパールへ行くことになった。
私は大学3年になる時に就職して半分社会人のまねごとをしていた。大学に行きながら働ける珍しい職場で、就業時間は午後3時45分から9時だったと思う。週に1日だけは大学のための遅刻が認められており、その分は他の日に早出すればよく、何とかやりくりできた。バイトをいくつも掛け持ちしても自分が希望するだけ働けるわけでもなく時給も500円前後と安かったので、いい仕事を探していてたまたま見つけたのがそれだった。娘がいきなり扶養から抜けてしまったので父親はずいぶんびっくりしていた(^^;
その時の職場の先輩が仕事を辞めて郷里に戻ることになり、その記念にヒマラヤに行ってみたいということで、一緒に行くことになったのだった。
香港経由でカトマンズへ。香港までの片道切符で行ったと思う。カトマンズまでの往復を買った。
2度目のカトマンズ、ダーバースクエアのあたり。ヒッピー然とした西洋人旅行者がちらほらいるが、自分もまぁ似たようなもんだったかと思う。まだまだのんびりした時代だった。
これもダーバースクエアのあたり。奥に見えているビルの手前を右に入って行けばジョッチェン、フリークストリートだと思う。旅行者のたまり場は既にタメルに移っており、ジョッチェンにいる人は少なかった。ゲストハウスもそんなにはなかったように記憶している。露店で売られているのはたいていがチベット風のお土産品。
カトマンズの大きな通りを歩いていたら、突然
「ゴトーちゃん! 何してんのこんなところで!」
と声をかけられて驚いた。よくよく見れば前年のカトマンズで、例の日本の登山隊が使う宿で数日一緒だった人だった。私がほかの友人と一緒にランタンに入る前に帰国していったと思う。その時に、その場にいた人が「住所交換しようぜ」と言ったのに、「俺はアキラ、じゃ!」と去ってしまったので、けっこうみんな「おぉ……」と驚いた、その人だった。一緒に当時王宮通りにあった日本食の古都、いや串藤だったかな、そこでお昼を食べた。
アキラこと彼はその時、日本からのツアー客を引率するバイトをしていた。英語が堪能なので頼まれたらしい。はぁ、あんたプログラマーって言ってたじゃん、的な会話を交わしたのを覚えている。
「お姉ちゃんたちを連れて明日帰国するんだ、バンコク経由で」
「そうなの? 私は明日ルクラへ飛んでちょっと山に入るよ」
「まじか、気をつけてな」
アキラは「まさか再会するなんてなー」と言いながら、住所と名前を教えてくれた。
ルクラへ、トレッキング開始
ルクラへ飛ぶ小さな飛行機、15人くらいしか乗れない小ささだ。
ルクラの標高は2800m強。ここまで徒歩で行くこともできるが、1週間かかるそうだ。
ルクラの空港に着いた。西洋人トレッカーが多い。
ルクラの外れで牛かヤクの毛皮を干していた。
こんな道をどんどん歩いて行く。道は割とゆるやかなアップダウンを繰り返す。そんなにきつくはない。吊り橋を渡った。この橋は、たしか、この1年半後に来た時にはもっと上の方に付け替えられていたと思う。
初日はパグディンまで歩いた。山小屋(バッティ)で1泊。
翌日はナムチェバザールまで。
初めて雪山が見えた、たぶんエベレストが見えている気がするが違うかもしれない。左の小さい黒い三角がエベレストに見える。
斜面の道から谷まで下り、登り返すことの繰り返しだ。今日の方がかなりきつい。
最後に川を渡ってからの登りがまぁ長いこときついこと。
ナムチェが見えた!
コンデ・リだと思われる。ナムチェバザールから撮影
ナムチェで2泊した。3400を超える標高なので、高山病が出て不思議ではない。だからここで高所順応のため2泊するのが望ましいとされている。
タンボチェへ、絶景だ!
ナムチェで悪いニュースを聞いた。タンボチェから先が大雪で進むことができないという。多くのトレッカーがそれで引き返してきているとのことだ。我々もタンボチェ停まりかもしれないねと話しながら、とりあえずそこまでは行けるというので出発した。
ナムチェから背後の斜面を登って、最初に見える風景がこれ。酷い写真だけど、最初に撮った1枚だと思うので記念に残しておく。
ちょうど私の真上にある小さな黒い三角がエベレスト。その右がローツェ。いちばん右にあるのがアマ・ダブラム。この山々を眺めながら登山道が続く。
ナムチェからしばらく山腹の道を進むと、道は急激に下りになり、プンキテンガという地点まで下る。そこは谷底だ。そこからはひたすらに登る。このタンボチェへの急登で高山病になる人が多いらしい。どんどんどんどん登って、そしてタンボチェに到着する。
タンボチェ。大きな僧院があり、この当時たしか2軒ほどバッティがあったと思う。単独でトレッキングをする人はまだ少なく、多くはトレッキングツアーとして山に入っているため、ガイドやポーターの姿が多い。ツアーの人たちはテントを張ってそこに泊る。単独の人がバッティに泊る。タンボチェ僧院は残念なことにこの年の1月に火事で焼失している。このため私はその姿を見たことがない。行くまでそんなことは知らなかったのでたいへん驚いたし残念だった。
翌早朝。テントが霜で凍り付いている。エベレストが美しい。
アマダブラムも美しい。この山は特徴的な姿をしているのでとても人気がある。
タンボチェの端の方に、登れそうな高い場所があった。早朝、そこに登ってみた。もしかしたら4000mを越えられるかも? と思った。その場所の標高はわからない。
ルクラでまさかの……
タンボチェから先はやはり大雪とのことで、本来ならカラパタールへ行くはずだったトレッキングツアーも続々と引き返していく。先の方から来る人はおらず、やはり進むのは無理そうだった。
タンボチェで2泊して我々も引き返す。ナムチェで1泊し、次の日はルクラまで一気に。下りは速いというのもあるし、数日山を歩くと最初とはまるで違う歩き方になるのでもある。
ルクラに着き、早速空港事務所に出かけた。その時我々が持っていたのはオープンチケット、日付指定のないチケットだ。何日山にいるかわからないので普通そうする(単独の場合)と思う。
ところが、飛行機が飛ばないので、ウェイティングリストが100を超える数字に膨れ上がっており、日付指定が出来ないという。出来ることは、待つことだけ。
この頃、カトマンズ~ルクラ間の路線はロイヤルネパール航空のみが飛んでおり(ほかの航空会社はまだ存在していなかったと思う)、最大に飛んで3往復だった。霧や雲で簡単に欠航になることで有名なこの路線。1便しか飛ばない、がんばって2便、まったく飛ばない、こともよくある。
我々のウェイティングが始まった。当初はさほど深刻に考えてもいなかったのだが、ルクラという小さな村で待機していると、嫌でも飛行機が飛ぶ飛ばないがわかってしまう。飛行機がカトマンズを出るとルクラ村でサイレンが鳴る。小一時間ほどで谷の遥か遠くに機影が見える。あぁ来たなと思っていると、Uターンして引き返してしまう。やがてルクラ村に空港からのお知らせが響く。
「Today NO FLIGHT! Everyone bring your baggage and go home!!!」
今日は飛ばないよ、みんな荷物持って帰ってね! と言われるわけである。これが連日のように続く。聞けばインドとの関係が悪化し、飛行機の燃料が入って来なくなっているのだという。飛行機を待っている人たちの中からは、毎日十数人あるいはもっと多くが、あきらめて徒歩での下山を選び村を去っていく。我々のウェイティングナンバーは次第に繰り上がって行き、ついに3番まで上がった。しかし飛行機は来ない……。来てもあらかじめその日のチケットを持っている人が最優先なので、ウェイティングの人に席はない。
この待っている間に特筆すべきことが一つだけあった。メラピークの登山隊を率いていた田部井淳子さんにお会いしたのである。何にも持っていなくてサインもしてもらえなかったが。田部井さんは我々が航空券を手配した会社に、カトマンズに戻ったら連絡してみてあげると言ってくださった。そしてすいーっと、カトマンズに飛んで行かれた。
飛行機はまったく飛ばないわけではない。その日のチケットさえあれば乗れることもあるのだが、もしその日乗れなければ、ウェイティングリストの最後尾につくことになってしまう。飛行機というものはややこしいものだ。
徒歩で下るきっかけを失い、今さら歩き出しても絶対にその日か翌日に頭上を飛行機が飛んでいくだろうと思うと、決断できなかった。毎日ザックを背負って空港に行き、「Everyone go home!」の放送を聞き、今夜の宿を求めて彷徨う。そんなことを続けていた。待って待って11日が過ぎた。
その日の夕方、日課となっている空港事務所でのウェイティング点呼に顔を出すと、皆が沸き立っている。何々? と訊くと、明日、飛行機が飛ぶらしいという情報があるらしかった。みんな喜び、その日は村のバレーボールコートで、国際親善大会が開かれたほどである。私はバレーボールがからきしダメなので観ていただけだったが、友人はけっこう上手で、イギリス隊に入れてもらって楽しんでいた。
翌朝、ルクラ村にサイレンが響く。カトマンズを飛行機が出た知らせだ。もうとっくに飛行場に待機していた我々も期待に胸がふくらむ。今日こそは乗れそうな雰囲気なのだ。
なんせカトマンズからルクラへも殆ど飛ばない状態だから、山に入って来る人間も限られる。2機飛んでくれれば、我々の席はありそうだった。空港にはその時ルクラに居た全員がたぶん集まっていた。
飛行機が来た。まず1機、続けてもう1機。西洋人トレッカーたちが下りてくる。そして大量の機材のようなものも下ろされる。乗っている人よりも機材が多いように見える。そんな中、ついに我々のウェイティングナンバーがコールされ、ボーディングパスをもらった。
やったー!
大急ぎで自分たちのザックを持って飛行機に近づき、荷物を載せてもらい、自分たちも乗る。機内はウェイティングの人たちで一杯になり、みんな大騒ぎでハイタッチしまくっている。飛行機はすぐに空港の滑走路から谷に向かって突っ込んで行き、前方の崖にぶつかるじゃないかと目をつぶるタイミングでふいーんと左に機首を振り、谷の中をしばらく飛んでから上に出る。小一時間のフライトでカトマンズに戻った。
市内も燃料不足でタクシーがおらず、同乗していたイギリス人カップルとシェアして何とか電プーをつかまえてタメルに直行した。カップルの片方スーザンが「kill Nepali!」と興奮のあまり絶叫し続けるのでさすがにびびった。
その日、ルクラへは7便が飛んだと後で聞いた。ルクラで溜まっていた人は全員下りられたそうだ。そしてその、7便飛ばした神は、ラインホルト・メスナー氏だったというのだから驚いた。どこかのエクスペディションだったのだろう。
そんなこんなの、ネパールの旅だった。
余談~アキラのその後
ルクラに飛んだ時、あぁアキラはもうバンコクか、数日バンコクにいて「お姉ちゃんたち」を遊ばせてから帰国すると言っていたから、自分がタンボチェに着く頃は日本だな。などと考えていた。
ところが、である。
アキラはバンコクに飛ぶ飛行機の中でたいそう具合が悪くなり、トイレの中から緊急ボタンを押すほどだったという。そのまま機内のどこかに運ばれて横にされ、伝染病の危険があるとのことで到着後も彼は普通に機内から出ることはなかった。救急車が横付けされて、そこに移され、入国も何もあったもんではなくそのまま病院に搬送された。
彼はコレラと赤痢を発症していた。かなり重症だったらしく、バンコクに半月以上いたそうだ。
絶対に、私と食べた日本食が原因だと確信した彼は、「俺はバンコクだからいいけどゴトーは山に入っちゃったから病院もなくて苦しんでいるだろう、大丈夫かな……」と心配してくれていたそうだ。私はピンピンして山を歩いていたのだから、原因はあの日本食ではないと思う。
帰国してその話を彼から聞いた。
「ねぇ、で、お姉ちゃんたちはどうしたの?」
「わからない、俺、お姉ちゃんたちに何か言うこともできずに別れた」
「無事に帰国したよねぇ?」
「そりゃそうだろ、行方不明とか死んだとかのニュースは見てない」
「ていうかバイト先に聞いてないの?」
「聞いてない、あれっきり連絡してないんだよ俺」
まじか。バイト代もらったのか。
そんなアキラであるが、実は私の長い旅の人間関係の中で、生き残っているのは彼くらいのものだ。他はみんないつの間にか切れてしまった。お互いの結婚式に出席しあったという稀有の仲。いつかもっと歳を取ったら、昔話をしてみたい。
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