2度目の中国 1989.10-12 ①

3月にネパールに行き、4月に香港と那覇を経由して帰国した。那覇に着いたのは4月も半ばを過ぎた頃だったと思う。その年の4月から日本に初めて消費税が導入されていた。商店でものを買うと3%余分に払わなければならない。慣れずに何度も「え? あ、そうか消費税……」となって店の人が不思議そうな顔をした。多くの人はもうその時期を過ぎていたのに、私だけが「え? あ!」とやっていたので。
それから少しして前年にネパールのランタン谷を一緒に歩いた人から連絡があり、バイトしないかと。ほいほい話に乗っかって、広告代理店でしばらくバイトをした。電飾看板を撮影して歩くのが主な仕事だった。喫茶店や煙草屋や酒屋やそういった店が、店の前にちょっと出しているあれである。あれは警察に「歩道占有許可」を申請して許可をもらわなければならない。その書類作成のために「実際にどんな感じで看板が置かれているか」を撮影し、貼り付けて提出していたのだと思う。毎朝数件の住所をもらい、電車やバスでその場所に行き、声をかけて看板を撮影する。気楽な仕事だった。3~4か月はやっていただろうか。面白かったが仕事そのものが減ったので辞めた。

その間に中国では天安門事件が起きていた。あの日のことは忘れない。新聞一面の上部をぶち抜きで真っ黒い四角枠と白文字が覆っていた。大勢が亡くなり、中国の民主化運動は実質この日に死に絶えたのだと思う。

10月の半ばに中国に旅立った。88年の旅では北京には寄らなかった。行ってみようかと思った。
旅の最初の地点は大連。全日空機で旅立った。


成田→大連→北京→桂林→昆明→シーサンパンナ→昆明→大理→昆明→重慶→武漢→上海(武漢から上海は長江を船で)

大連~北京

大連へ行くと88年に上海で出会い一緒に帰国した人に話すと、東北地方は宿がなくて困るかもしれないから一応教えておくねと、大連外語学院(確か)の住所を教えてくれた。
大連への飛行機はガラガラで、殆どの人はビジネスマンだったらしく、入国して税関を抜けるともう誰もいなかった。大連空港にはバスもなく、仕方なくタクシーで目星をつけていたホテルに向かったのだが、断られる。次も断られる。そしてまた次も。
当時の中国は外国人が泊まってもいいホテルが町ごとに数か所ずつ指定されていた。そんなに多くはない。すぐにその数か所を巡ってしまい、全部断られ、途方に暮れた。その時に思い出したのが外語学院の住所。タクシーに訳を話して向かってもらい、受付のような場所で必死に訴えていたら日本語のできる人が出てきてくれて、学生寮に泊めてもらえることになった。
東北地方恐るべし、だった。

当時の大連の風景なんとなく。遠くに海が見えている。海というか港か。

外語学院は不便な場所にあり、近くに何もない。学生ではないから食事もない。カップ麺を買って食べたりした記憶がある。これはさっさと北京に出ないとと列車の切符を買いに行ったが、売ってもらえない。何やら許可証のようなものが要るらしいのだが、それは私には取れないもので困った。困って学院の人に相談すると、飛行機なら大丈夫だと教えてもらい、チケットを買いに行くと確かにこちらはパスポートだけで購入できた上に、列車より安かった。

外語学院での思想教育風景(違うか)。軍事教練のようである。全員が緑の人民服を着て、「121! イー アール イー!」と行進していた。ここにいるのは1年生、天安門後に思想教育が強化されていく一端だと思う。この行進は私がそこにいた両日とも、ひたすら続けられていた。

大連には2泊したのみで北京に脱出した。東北地方はどこへ行っても同じ状況ではないかと思ったし、何よりあまり寒くならないうちに北京に行きたかった。

北京では、当時外国人が泊まれる宿は本当に僅かで、その中で一番安いこれまた不便な場所にある宿に行った。僑園飯店という名の宿だった。バス停から運河のようなものに沿って歩いて行った記憶がある。その運河が凍っていた記憶も。3人ドミで12FEC(外貨兌換券)。この時のレートは39円ほどだったので、460円くらいだ。
この宿の周辺にはいつもウイグル人たちがたむろしていて、チェンジマネーを持ちかけられた。外貨兌換券(ワイホイ)を闇で替えると1.5~1.7倍の人民元(レンミンピー)になる。ワイホイでなければ買えないものが存在したので、ウイグル人たちはそれを欲しがる。外国人もレンミンピーしか通用しない場所だらけだからレンミンピーが欲しい。お互いに得になるのだが、ウイグル人たちはマジックを使って胡麻化してくるというのも有名な話で、当時中国を旅していた人ならウイグルマジックという言葉を聞いたことがあるはずだ。
レンミンピーが足りなくなってきたのでウイグル人と交換しようとした。ホテルの駐車場でだ。彼らがレンミンピーを数える。「1,2,3,4」で16まで数える。こちらが100元に対して彼は160元を私に支払う。10元札で16枚。彼は紙幣を束ねて指の間に挟み、1枚ずつ数えていき、これでいいだろうお前の100元を出せと言ってきた。
私は彼らの手口を知っていたので、その前に数え直させろと譲らない。しぶしぶ渡された札束をよく見ると、半分くらいが半分に折り畳まれている。1枚を2枚に見せかけるためだ。
「ダメ、交換しない」と言い放って私はその場を離れた。
ホテルの中に入ると心配しながら見ていたらしい欧米人に「気をつけてね」と言われ、私は笑った。

紫禁城だと思う

革命軍事記念館と思われる。「反革命暴乱」とは天安門事件のことであり、「罪行は累々、鉄の証拠が山のごとし」なのだそうだ。背後には戦車などが展示してある。

破壊された戦車が並んでいた

記念館の中には、全国各地の子どもたちから届いた「兵隊さんありがとう」という手紙が大量に貼り出されていた。反革命分子たちの非道な暴乱を命をかけて鎮めてくれてありがとう、僕たちは安心して勉強できます、的なことが延々と書き連ねてあった。

事件直後に始まった「反革命分子」狩りは半年過ぎたこの頃もまだ続いており、当時の写真やビデオなどが集められそこに写っていれば容赦なく連行され、そのまま消えた人も多いと聞く。

天安門広場

宿で、山東省に日本語専科(教師)として滞在している人と知り合った。天安門事件に参加して消えた学生の消息を探していると言っていた。
天安門に一緒に行った。天安門は中国の象徴ともいえる場所で、建国宣言もここで行われた。事件から半年の当時、天安門に行くことはできないと言われていたが、近くには行ける。そこまで行ってみようと出かけた。
おそらく、前門東大街、という交差点だったと思う。ここにバスと徒歩でたどり着いた私たちは、天安門の方向を眺めていた。歩く人は確かにここでストップをかけられているのだが、車は普通に入って行っている。尤も当時、普通の車というものは殆ど存在していなかったのではあるが。
既に夕暮れ時になり、退勤する人たちも大勢いたように思う。車と自転車が通って行くのを、私たちはずっと眺めていた。

私たちに気が付いた自転車リヤカーの人が声をかけてきた。中国語のできる専科さんが話している。
「入れるらしい、これに乗れば入れるらしいよ」
「ほんと? じゃ、行ってみましょうか」
と、そんな軽い気持ちで、リヤカーに乗った。おじさんは自転車を押しながら交差点の歩道から車道に出た。付近で警戒している兵士たちも何も言わずに見ているだけだ。

多くの市民が自転車で天安門エリアを通行していた

大勢が集まり、テントを張って頑張っていたのはこの付近かもしれない
リヤカーは長安街に入る。

これがかの有名な天安門。塔のようなものの陰に毛沢東の肖像画がある。

 

長安街から前門に向かう。自転車は本当に多い。停止することは(基本的には)禁止されていた。

リヤカーのおじさんが自転車を止めて、記念写真を撮ってくれた。数メートルおきに兵士が立っているが、おじさんは顔見知りらしく愛想よく振る舞い、兵士たちも笑顔を見せていた

自転車をこぐおじさんの背中

どんどん日が暮れてゆく。

前門西大街に到着する、ここが終点だと聞いていた。出発した場所とは違う。これがこの時最後に撮った写真だ。既に暗くなっており、専科さんのカメラのフラッシュが光った。

リヤカーがこの右手の歩道方向に寄って行くと同時に、わらわらと周囲にいた兵士が殺到してきて、気付くと私と専科さんはリヤカーを下ろされ、兵士たちに歩道の隅っこに連行された。視界の端でちらっとリヤカーの人を確認すると、こちらはぜんぜん別の方向にやはり連行されて行ってしまった。
私たちを10人ほどの解放軍兵士が取り囲んでいる。銃口を向けている兵士もいる。全員が怒っているように見えた。口々に何か言っているが、私には聞き取れない。専科さんが必死に何か話している。留学生で、どうしても天安門を見たくて、というようなことを説明していたのだと思う。リヤカーの人も私たちのことを、留学生だと伝えたはずだ。ずいぶん長い時間が過ぎたと思う。専科さんの説明に兵士たちは納得しているのかいないのか、私にはわからない。
銃で小突かれ、「お前は?」と訊かれる。私は非常に拙い中国語で「自分は留学生で、来たばかりで言葉ができません」と言うのが精いっぱい。兵士たちがいら立つのがわかる。ガチャ、ガチャ、という硬い金属音が響く。撃鉄が下ろされていくのだ、兵士たちの銃から。専科さんが「何をしていたのか訊いている」と言ってくれ、さて困った。もちろん専科さんは「この人は来たばかりで中国語は全然できません」と言ってくれていた。しかし何か言わねばこの場が収まらない。とにかく言うしかない。

「偉大的領袖毛沢東同志永眠的地方我要看 !」

これがその時、私がひねり出した答えだ。中国語として滅茶苦茶だと思う。ほんとすいません。
「偉大なる領袖、毛沢東同志が眠っている場所を見たかったのです」と言ったつもりだ。この時期テレビを付ければこの「偉大的領袖毛沢東同志」というフレーズが数分おきに聞こえたような。だから一連なりの言葉として覚えていたのだ。

ふっ、と、兵士たちの緊張が解けた、と思う。言葉もできないバカが、と思ったのだろう。害はなさそうだ、とも思ったのかもしれない。とにかく私と専科さんは唐突に解放された。その時に初めて、私たちと兵士たちを囲んでたくさんの市民が、じっと成り行きを見物していたのを知った。その人垣をかきわけて私たちは逃げ、そこから走って走って、何しろ私は止まりたいのだが専科さんが止まらないのでとにかく走って、なんと、北京飯店まで突っ走った。

北京飯店の大きな階段にたどり着いて私たちはようやく止まり、そこに座り込んだ。
「殺されると思った」
息が静まって、専科さんが呟いた。私はそこまでは思っていなかった。「まさかね」と、事態を甘く見ていたのだと思う。まさか撃たれるわけがないと、たぶん思っていた。その時はもちろん混乱のさ中にあって、そんなことを考えたり思ったりする余裕はなかったはずだが。
ああこの人は中国の中にいて、天安門事件を経験した人なのだと思った。

この時期、北京の各所には、「没有死亡一个人」(誰一人として死んではいない)という言葉が掲げられていた。兵士は死んだが、市民も学生も一人も死んではいないというのである。もちろん大嘘だが、誰も異を唱えることができない。独裁恐怖政治というのはそういうものだ。
中国語で、「死亡」と「希望」は同じ発音、「シーワン」と読む。人々は、「没有死亡」ではない、「没有希望」なのだと、絶望しながら話していると、専科さんに聞いた。ろくよん天安門事件と、私自身の天安門事件を思い出す度に、このことを思い出す。

もうひとつ思い出したことがあるので書いておく。専科さんの言葉だ。
「これは笑い話にしたいけれど、学校の中の一部の生徒には絶対に話せないのよ。彼らは笑いながら話を合わせておいて、あとで密告するわ。そこに良心の呵責なんて一切ないの。本当に、おそろしい国よ。彼らが言う“没有希望”も、もっともなことだわ」

右側のA地点から上へ向かい、左折して長安街へ入り、また左折してAとBが重なっている地点までリヤカーで。ここで兵士に捕まり、解放されてから、右へと走って北京飯店まで。
今は名前が違っているがおそらくこれが当時の北京飯店ではないかと思う。もちろんまったく違うかもしれない(^^; あの時の北京飯店は道路からたくさんの階段を上ってようやく建物があったと記憶する。現在ここにあるノボテル北京はそういう立地ではないようなので。ただ感覚的にはこのあたりだった、それは確かだと思う。
それと現在はたぶん自転車でも徒歩でも、長安街から左折してまっすぐ前門へ行くルート(広場西道路)は閉鎖されているのだと思うが、当時はこの道を走ったように記憶している。

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