北京から桂林へ~1989.10-12中国②

北京で八達嶺一日ツアーに参加する

天安門でおそろしい目に遭ってすぐ、専科さんは職場に戻って行った。とにかく北の人間は性格が悪く、何か尋ねているのに皆まで聞かず「ブーチータオッ!!!」と吐き捨てながら去っていく、という話が面白かった。「不知道」でブーチータオ、わからない、知らない、という意味だ。中国語には吐き出すような発音も多く、今は日本で彼らが中国語で話しているのを見る機会も多いと思うが、喧嘩してるのか? と感じることもあるのでは。それは彼らの地声の大きさと、カッ、パッ、ペッ、というような吐き出す音の強さがそう感じさせるのだ。もちろん本当に喧嘩していることもあるが(笑)
とはいえ、そんな地声の大きさや傍若無人なふるまいなども、若い世代になればずいぶんと緩和されてきている。それはもうまったく間違いのない事実である。

さて。
北京の次は桂林に行ってみようと、これまた列車のチケットが取れずに航空券を購入した私である。その日までにはまだ時間がある。市内の天壇などには行っただろうか、ちょっと今は覚えていない。
八達嶺、万里の長城に行く1日ツアーがあると駅前で見かけたので申し込んだ。北京では専科さん以外に日本人には会っておらず、一人で参加した。

観光バスにぎっしりと客を詰め込み、バスは出発。私以外全員が中国人という超アウェー状態。ただこの時の乗客たちは互いにグループを形成していて自分たちで楽しく騒いでおり、私は見事に放っておいてもらえた。それはそれで気楽であった。

市内を出ると一面の麦畑だった。収穫した麦を舗装された路面に延々と並べている。当時は舗装道路は幹線路のみで、それとてすれ違いは難しそうな広さの道ばかりだった。それでもたまに車は通るので、タイヤに牽かせて脱穀していたのだと思う。そういう風景を延々と見続けた。

明の十三陵に寄った。明代の皇帝や妃たちのお墓だ。石像がたくさん並んでいた。1年前に西安で見たものと殆ど同じように見えて、ただぶらぶらと歩いただけ。もしかするとこの1つ前の投稿で天壇? とした写真が、こちらだったかもしれない。

一応載せておく

八達嶺に上がるところの駐車場だと思う。周辺にこんな風に地元の人が露店を出してお土産品を売っていた。売り子はほとんどがおばちゃんであるが、みな白い帽子をかぶっている。白い帽子といえば回族が思い浮かぶが、どうなのだろう。単純に「お店の人」の制帽っぽい? ものなのかもしれない。

長城が見える。

長城を登り始める

延々と続いているし、分岐している場所もある?

けっこうな人、おぉ西洋人もいた

かなりの急勾配

それにしてもよくこんなに作ったものだ

八達嶺はこれで終わり。あまり覚えていることもないが、ちょうど柿が熟れる時期で、バスにも柿売りが来ていた。中国人たちが買い求めるのだがもうぐずぐずになっているやつで、窓を開けてぐずぐずを食べるというよりもすすり込むような感じで、例によって汚いのぉ……、と思ったことはよく覚えている。

因みにこの一日ツアー(一天遊)の値段は6RMB(人民元)。180円くらいかな。

市内へ戻ると、もうすっかり夜だった。天安門にさしかかると、乗客が一斉に「天安門だ」と窓の外を見つめる。地方からの旅行客が殆どだ。この当時、国内の人がどのくらい事件について知っていたのか、甚だ疑問だ。殆ど知らなかった可能性も高いと思う。
前門に向かって天安門広場の横を通るバスから見ると、数メートル置きに立っている兵士はまるで十三陵の石像のようだ。石のように、微動だにせず立っている。闇に包まれた広場には、他に人影はない。
ここで流された血を思う。巨大な国、中国。こんなに広い国土のなかで、それでも一杯に肥大してしまった国、中国。巨大な竜が、出口を求めて身悶えしている。
(この最後の部分は旅の直後に書いたものから抜粋した)

桂林は最悪・・・(その時の私にとって)

桂林へ飛び(航空券340FEC)、外国人が宿泊可能な宿を軒並み当たったが、すべて建物の外に「外国人宿泊不可」と大書されており、途方に暮れた。この時期桂林は、外国人を締め出していたのだと思う。理由はわからない。外国人が泊まれるかどうかはわからない宿にも手あたり次第に当たってみたが、すべて宿泊不可。どうせいっちゅうのじゃ。

万策尽きて、客引きについていった宿に泊まることに。何となく嫌な雰囲気がしていた。個室だったというのも大きい。それまで中国で、個室に泊ったことが殆どないからだ。ドミなのに誰もいなかったということはたとえば88年の西安であったが。
そして部屋はたしか3階だったのだが、窓の外に2階の庇部分が大きく張り出しており、それも引っかかるといえばそうだった。
それでもとにかく宿が確保できたので、町へ出てみた。次に行く昆明へのチケットも買わなければならないし、桂林といえば川下りだろう、それも申し込んでおきたかった。
列車駅ではまたしてもチケット購入不可で、航空券を買いに行った。航空券なら買えるというところが実に面白い。バスはどうだったのか、桂林から直通はないと思うし試していない。

色々歩いてその日の夜だ。新しい場所は眠れないのが常で、この夜もそうだった。何となく不穏な気配を感じていたので、ドアの前に室内にあった大きな椅子を置いていた。
この当時中国では宿に泊まる時、自分の部屋の鍵をもらうことはなかった。ドアは服務員に開けてもらう。閉める時も同じ。ドアチェーンなぞというものはない。つまり宿の人間は簡単に部屋に入って来られる。
眠れないままぼんやりしていると、ふと、窓の外に気配を感じた。何かがいる。明らかに、確かに、何かがいて動いている。コンクリートの庇の上を動く音がする。
どうするか、咄嗟に考えた。逃げ道を作らなければと、まずドアの前に置いていた椅子をそっとどかし、そこから自分が逃げられるようにした。その「何か」はまだ外にいる。窓をいじっている音がする。鍵はあっても甘々で、簡単にこじ開けられそうだ。
私は意を決して電気を点けた。そして次の瞬間にカーテンを開き、「何か」がいた場所とは離れた窓をガン! と開け放った。外開きの窓だったと思う。

果たしてそこには男がいた。
昼間、客引きと一緒に付きまとって来ていた男だった。そいつの案内で私は川下りのチケットを買っていた。わずかに英語が話せる男だった。

「誰だお前! 何してんだ!」
「I am policeman looking around……」
と言いながら、男は後ずさりして行った。
「そんなわけないだろ!!!  死ね!!!」
私は絶対に負けないようにそう絶叫した。男はおそらく2階の階段の窓から建物内に戻り、そして逃げて行った(と思う)。

見つかったことで慌てるような小心な奴で本当に不幸中の幸いだった。そんなものをものともせず、部屋に押し入って来るような奴だったとしたら、そいつは何にしても目的を遂げたに違いないのだ。
本当に危なかった。嫌な予感を感じることはあるし、他に選択肢があればこの宿には泊まっていない。怖かった。一日も早く桂林を抜けたかったが、飛行機は毎日は飛んでおらず、その日まではここにいるしかない。

翌日、あらためて町を歩き回った。そして奇跡的に白人の姿を見かけたので、どこに泊っているか訊いてみた。彼らはツアーの一員だったが、大きなホテルは外人禁止になっているため小さめの所に泊っているのだと、場所を教えてくれた。急いでそこに行き、訊いてみると最初は個人客はダメと言われたが、昨夜これこれこういう宿に泊まって怖い目に遭ったと話すと同情してくれ、泊めてもらえることになった。ほっとしてそこのドミトリーに移動した。

そんなこともあったが川下り

そんな怖いこともあったが、宿を移ると気分も晴れた。ドミトリーとはいえ4人部屋だったと思う。しかし客は他におらず私だけ。部屋は2階で下に庇などもなく、侵入される可能性は低いと思った。何より私の居場所を知っているのはホテルの人だけだ(もちろんそれだって十分に危険性はあるのだが)。

桂林の川下りは漓江という川を下る

こんな船だった

水牛がいた

こちらは小舟でおそらく川海苔のようなものを採っている

奇岩林立、いかにも桂林の風景

地元の人たちを載せた船、野菜なども積んでいる

漓江は観光船以外にも地元の人たちが利用するこういう船も通っていた。川を遡っていると思われるこの舟も、人間と野菜や鶏などの品で満杯状態。どこまで行くのだろう。

船着き場があり、人の乗降がある

何かの養殖?

台湾の人に撮ってもらった

船には台湾からの観光団が乗り込んでいた。この人たちはおそらく、どんな宿にでも泊まれるのだろう。
この頃の中国ではよく「港台同胞」や「香港台湾同胞」といった文字を見かけた。主に駅の切符売り場などが多かったかと思う。彼らには特別な優遇措置があった。88年には私も知り合った香港人に切符を代理購入してもらったことがある。彼らは中国人ではないが外国人でもない者として遇されていたわけだ。

因みにこの時の漓江下り、95FEC、自分では買うことができず(外国人不可)のためやむなくダフ屋から買ったのでボラれていると思う。船内での昼食と、船を下りたところから桂林へ戻って来るバス代は込みだった。

日本語の話せる台湾の人に声をかけられた。色々な話をしたが、
「こんなに貧しくて、中国人は可哀そう……」
と何度も言っていたことが記憶に残っている。確かに中国はほんとうに貧しい国だった。何もかもが足りていなかった。バスも列車も需要に対しての供給があまりにも少なく、故に常に彼らは怒鳴り合い、列など作らずに我先にと突進し、殴り合い、自分の席を確保する。貨物専用の車などないから、バスに大量の野菜や鶏や豚が詰め込まれる。物乞いも多く、「人民」は本当に劣悪な環境に暮らし、教養もなく、野卑で鈍重だったと思う。今の中国からは想像もつかない部分が多い。

桂林では、ほぼ完ぺきに英語を話せる中国人に出会った。どうしてだかわからないが白人の子どもをいつも連れていた。桂林が、日中戦争当時にかなり爆撃の被害にあっていたことを、その時初めて知った。なぜこんな小さな町を空襲したのだろう。不思議に思って調べてみると、ここには米軍の航空基地があり、海上艦船や台湾を爆撃するためのB29がここから飛び立っていたから、なのだそうだ。相当に激しい爆撃と地上戦が行われたらしく、そういうことをまったく知らなかった自分が恥ずかしかった。

 

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