大理、沙坪、ベルリン~1989.10-12中国旅行の9

沙坪のバザールへ

大理からミニバス(麺包車)で小一時間の距離にある沙坪(シャーピン)という集落で、週に一度市が立つ。地元白族の市だ。午前中でほぼ終わってしまうらしいので、早起きしてバスに乗った。
湖を右手に見ながらバスは走る。左手は雄大な山が続いている。どちらかというと荒涼とした風景で、ネパールを思い出す。それもランタン街道の雰囲気にどこか似ているような気がする。
バスを降りてすぐの所にいたおばさんから、包子を一つ買う。中は思ったとおり黒砂糖で、朝の身体には丁度いい甘さである。ぶらぶらと歩いて行って、バザールの広場に出た。野菜、ざる、布、靴、帽子、服、本、とにかくあらゆるものをぶっちゃけたようなバザールだ。

竹籠に入れて来たものを広げて売っている
白いテントの屋根のようなものが面白い

手前の箱は物入。日本でも長持というものがあったと思うが、それに近い。貴重品を入れたり、米や乾物を入れたり、そしてベンチにもなる。

遠くに見える橋の方まで人がいっぱいだ

白族が主体の市だが、当然ほかの民族も来ている。この写真に写っている女性はどちらかというとサニ族に近い気がする。他にも彝(イ)族、納西(ナシ)族、もちろん少数の漢族もいると思う。現金での売買も盛んだが、物々交換のような交渉をしているのも見た。非常に古い形での交易の場なのだと思う。

廃車にしか見えないトラクターや、停めてある自転車、無数の麻袋、人が背負う竹籠……。80年代後半の中国はこんな感じだった。

大理に戻るミニバスに乗った。既に満席、特に前方は担ぎ屋のおばさんたちとその荷物(野菜だった)に占拠されており足の踏み場もない。仕方なく私はドアに近いところに立っていた。さらに乗り込んで来ようとするおばさん1人。大きくて重そうな竹籠をバスに乗せようと四苦八苦している。周囲にはガタイのいい男たち(民族問わず)が幾人もいるのに誰も手伝わない。仕方ないので私が行って籠を一緒に持ち上げてあげた。おばさんは歯の抜けた口で笑い、前方を指さす。あぁ、とさらに籠を動かして適当な場所に倒れないようにはめ込み、元いた場所に戻った。
なかなか発車しないのを待っていると、さっきのおばさんが立ってきて私の手を引っ張る。そちらに行くと担ぎ屋のおばさんたちが声をかけあい、体をずらしあい、1人分の場所を作ってくれた。私はおばさんたちの荷物の上に一緒に座り、大理まで運ばれて行ったのだった。私が座ったのは大きな麻袋、中身はジャガイモかなぁ。

大理の藍染め

大理は大理石が有名だが、もう一つ有名なものが藍染だ。いろいろな絞り染めを施したものが、路地のあちこちで売られている。民家の通りに面した小さな窓がお店、というような場所もあった。歩道に少しだけ袋物をぶら下げている店や、道路にミシンを持ち出して縫いながら売る豪快な人もいた。写真を撮ったはずなのにまったく見つからず……。

大きな風呂敷のような布、小さな小さな袋物、そんなものをちまちまと買って楽しんでいた私だが、大理に巣食っているそう、例の大理ーズが唆してきた。
「これ、持って帰って売ったらいい商売になるんじゃないっすか? 今フリーマーケットとかあるんでしょ?」
フリーマーケットか。聞いたことはあるが一度も行ったことがない。そうかぁ、次の旅の資金の足しくらいにはなるかなぁ。
元来がバカなので、あっという間に調子に乗り木に登った。ベッドカバーのような大判の布、風呂敷サイズ、かばん、スカート、いろいろ買った。カンフーの人が着ているようなズボンや上着も作ってもらったりして買った。買い始めると面白くて、たくさん買ってしまった。

この日から10年以上経ってから私は布屋になるわけだが、この時の大理は私にとって最初の仕入れ(大げさだが)体験になった。今あの日に帰れるのなら、町中の全ての藍染を買い占めて自宅にストックする。この当時、既に合成藍が使われていたとは思うが、それでも全ての絞りは完全に人の手による「縫い絞り」だったのだから。今はそれらしく見えるプリントも多いと思う。
このへんの藍染の話は、1993年に再訪した時の項で詳しく書こうと思う。

忘れられない夜

いつもは陽気に(バカみたいに)騒いでいる西洋人たちが、その夜は妙におとなしかった。あちこちの店の小さなテーブルを囲み、ひそひそと話している。何だろうかと訝しんだ。何か大きな事件が中国内で起きたのかと思った。旅行者に対しても影響があるような大きなこと。

しかし違った。

ベルリンの壁がなくなる。東西ドイツを隔てていたあの壁が、なくなる。
そのニュースが口コミで駆け回っていた。
驚いた。

招待所に戻ると、ドミの隅っこに皆が固まっていた。近寄って行ってみると、誰かが持っていた短波ラジオを、皆で一心に聞いているのだった。何語かもわからない、英語なのかな? とにかく皆が押し黙り、わかっているのかいないのかわからないその雑音だらけの音声を、とにかく必死に聞いているのだった。

誰も喜んでなどいなかった。
むしろ不安に感じていたのだと思う。
壁がなくなるということはつまり、東西に分けられていたドイツが一つになるということだ。当時は今よりも「西と東」がはっきりと分かれていたと思う。西ドイツと東ドイツはまったく違う国だと、少なくとも私は思っていた。政治体制はもちろん、経済力だってまったく違う。それが一緒になるというのはどういうことなんだろうと、私もそれが意味することを考えようとしたがさっぱりわからなかった。ただ、今まで長い間自分が「こうだ」と思っていた世界地図、あるいは勢力の均衡、それが崩れるのだ、ということだけはわかっていたように思う。

その日、ベルリンの壁にはお祭り騒ぎのように人々が押し寄せ、壁をハンマーなどで叩き壊し始めていた。壁の上に人が登ってハンマーで叩いているところや、東と西の人々が抱き合って喜んでいる映像は、帰国後にたくさん見た。
でもあの夜、そこから遠く離れた中国の隅っこでは、西洋人たちは一様に押し黙り、変わってゆかざるを得ない未来について暗いイメージを抱いていたように思う。

東西ドイツ統一何十周年、などの時期に決まって流されるそれら「壁が崩壊した日」の映像。歓喜の映像を見ながら、私はいつもあの大理の夜を思い出す。小さな短波ラジオにかじりつくようにしながら、一様にこわばった顔をしていた西洋人たちを思い出す。何となく、本当に何となくなのだが、「蜜月は終わる」と彼らは感じ、私もまた彼らからそれを感じ取ったように思うのだ。

そんな1989年初めての大理の旅だった。

楼門の上で

(この項は殆どが2022年1月記)