旅を終えてすぐにまとめておいた文章が出てきたので、ここからそれを優先して書いていこうと思う。文体が変わるのはそういう理由である。
昆明、そして石林
昆明、雲南省の省都。気候は年間を通じて穏やかで、人間もいたって穏やからしい。昨年のシルクロード旅行の最中、何度も雲南の話を聞いた。中国は辺境がいい、中でも雲南の穏やかさは、他とは比較にならないとも。今度中国を訪れるなら、雲南へ行こう。これはその時からの計画だった。
一日遅れて飛んだ飛行機は、午後昆明に着いた。民航(中国民航、当時はこれしかなかった)の大型バスで市内へ向かう。片側3車線の広い道が続く。それにしては、人間がそんなに多いとは思わない。民航オフィスは市内の中心にあった。ここから、昆明の生活が始まる。
「シャオチエ ホァンチェン!」子供をおぶったおばさんが声をかける
「今ないんだ、ごめんね、明日ね」と、そんな言葉が思わず出てくる
因みに「シャオチエ ホァンチェン」は「お姉さん両替は?」の意味。この時期はどこでもまだ闇両替が盛んだった。
民航のオフィスでバンコク行きのチケットを尋ねた。雲南の後、タイへ出てもいいかなとちょっと思っていたのだが、かなり先の12月6日しかないとのこと。それだけ聞いて、外に出る。昆明は快晴、曇天の続いた桂林から来たので、それだけで幸せな気持ちになる。チェンマネのおばさんにやさしい言葉が出るのもそのためだ。
とりあえず近場の昆明飯店にチェック・インする。6人部屋だが広くて明るい。バス・トイレ付きの豪華な造りだ。さすがは20元のドミトリーと、納得する。
表に出て、夕方の町を歩く。広い通りを歩いて行くと、広場に出る。天安門のミニチュアと言われる、東風広場である。その近くに「超級市場」こと、スーパーマーケットがあったので、ひやかしてみる。手に取って品物を選ぶ店は、まだ少ないのだ。
戻ると同室に日本人がいた。近大の男子学生さんで、コッヘルだのラーメンだのを持参している。何もかも新品なので初めての旅行かと思えばさにあらず、3回目の中国だそうだ。先輩じゃないか。しかし、今回もチベットを狙ってきたのだと言うが、私に言わせると装備も心構えも甚だこころもとない。雲南ルートは確かにチベットへ通じているが、ここは3つあるルートの中で最も厳しいと聞く。そのルートに入るのに、地図一つ持っていないのではちょっと……、かなり難しい。それにこれから冬に向かっていくわけで、道路が通れなくなることもあるのでは? そんな無駄話をしていると、彼はあっさりと雲南ルートはやめる、と言った。
え? そんなにあっさり? と思ったが、まぁ旅の予定なんてそんなものと言えば言える。
昆明飯店の近くに茶花賓館がある。茶花の向かいには実験飯店という名の食堂があった。過橋米線という有名な麺があるそうなので食べに行った。すると英語のメニューを持ってくる。これ自体非常に珍しいが、英語では余計にわからないので中国語のメニューを頼んだ。激しく拒絶されるが、英語では何が何やら……なのでしつこく頼み、やっと持ってきてくれた。
値段が違っていた……。
そういうことだったのか、と納得。
過橋米線は昔々、科挙を受験するために勉強三昧の夫のため、妻が食べ物を届けようとするのだが、何を持って行っても途中で冷めてしまう。どうにか冷めないようにするには、と考えて考案された、たしか油の層が上にある麺だったと思う。妻が届けに行くルートに橋があったので、橋を渡る麺、という名前になったのだそうだ。食材が別に出てきて、自分で入れたようにも記憶している。この段落は33年後に書いているので定かな記憶ではない。
何にしてもこの麺は美味しく、以後見かけると食べるものの一つになった。
ふりむけば、サニ族がついてくる。石林はサニ族の世界だ
7時に昆明の茶花賓館から1日遊のバスに乗った。日本製のミニバスは、まだ暗い町を走っていく。やがて郊外に出ると、ようやく日が昇った。穏やかな丘陵地帯を抜けていく。私はこういう風景が好きだ。
やがてバスが停まる。石林に着いたと思ったのだが違い、ここで鍾乳洞を見ることになる。中国人料金で券を買う。サニ族の民族衣装を着た娘さんが案内してくれるようだ。バスの一行はぞろぞろと彼女に続いて中に入って行った。中はライトで照らされ、なかなか綺麗に演出されている。一つずつの石に名前があるのだろうが、中国語なのでわからない。そんな鍾乳洞を二つ見た。
二つ目の出口付近に、近所の村人たちが物売りに来ていた。おばあさんが「甘いよ、おいしいよ」と言ったので、さつまいもを買った。小さな芋を、ふかして売っているのだ。バスの中でさっそく食べたが、うん、甘くてとてもおいしかった。
さてまた走る。やっと石林を見られるのかいな、と思ったのだが、バスはどうもメシに向かっているらしかった。「飯だ、飯だ」と乗客たちが話しているのが聞こえる。バスが目当ての店の前で減速すると、人の群れがバスに向かって突進してきた。な・・・何だ何だ!?
突進してきたのはサニ族たちで、彼らはバスを下りる観光客に品物を売ろうとして、走ってきたのだ。唖然としながらバスを下りた私の前で、大勢のサニ族が我こそが外人に物を売りつけようと場所取りを繰り広げ、口論を始めていた。そして、一人の若い女性が私に言うには
「あの人たち、嘘つき。サニ族は嘘つかない。大丈夫。」
「???」
みんなサニ族だと思うのだが。その中でも部落が違うとかなのか。それともサニ族の衣装を着ている実は漢族なども混じっているということなのかな?
因みにこの当時、中国人がこういう場面でお土産を買うのを見たことがないように思う。だから勢い彼らのターゲットは外国人らしき私に向かうのだ。2020年代となった今でこそ中国人と日本人は一見見分けがつかないこともあるが、当時は歴然と違ったし、普段からそれを生業としている彼女たちには、どんな遠くからでも「日本人来たー!」となったに違いないのだ。同じ東アジアの韓国人は、と思われるかもしれないが、当時中国で韓国人に会った記憶はない。この頃の海外旅行者の国籍は国の経済力とイコールであり、日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、この辺りで大半を占めていた。上記以外の国の人に会うと「珍しい」と思うくらいだった。
一人のサニ族のおばあさんが、私のそばにやってきた。彼女は何故か歯のない口を大きく開けて笑い、肩に下げたズダ袋からひまわりの種を取り出して、私の手にザザッと出してくれた。そして、私と彼女は、食堂の前の駐車場にしゃがみこんで、プッツン・プップッとひまわりの種を食べたのだ。私の不器用さを見て、また彼女はワハハと笑った。そんな私に皆すっかり売る気も失せたのか、サニ族の人々は離れて行った。
再び走り、やっと石林を見せていただけることになった。バスを下りるとここでもサニ族が狙って来る。それを適当にあしらいながら、とにかく屋台を探した。軽く何か食べようと思ったからである。入口を入ったところに屋台の密集地があった。その中の一軒を覗くと、おばさんが
「食べるのかい?」と聞く。
「うん、いくら?」
「5角だよ」
「じゃ、一杯ね」
おばさんは麺を一掴みと野菜を適当に鍋に入れ、七輪にかけた。そして笑いながら、「辛いのは駄目なんだろ?」と聞いたものだ。私も笑って、「駄目、駄目」と答える。かくて辛いもの抜きのミーシェンが、できあがる。
食べ終わって歩き出すと、またいつのまにかサニ族がついてくる。「来るな」と言うのも面倒なので、ま、放っておこうと歩いていく。彼女たちは「ご案内します、ご案内します」とかなり奇妙なイントネーションの日本語を口々に叫びつつ、またまた内輪もめをしている。「アタシの客なのよ、アンタは来ないで!」てなことを言っているのであろう。私には関係ないので、これも放っておく。
しかし、日本人の後ろにサニ族が10人も20人もぞろぞろ歩いているのは、どう見てもヘンである。ヘンなのであるが、私にはどうにもできない。ぞろぞろの一行は、石林の中をあっち、こっちとぞろぞろ歩いていくのであった。
ずいぶん歩いたと思う。炎天下を登り下りするので、私は途中ですっかり疲れてしまった。石林の一番奥まで行くと、さすがの中国人観光客も減り、少しゆっくり歩けるようになる。すると彼女たちが、ここで休んでいきましょうと言い出した。私はやれやれと、その洞窟のような休憩所に腰を下ろした。
実は、サニ族たちを強いて追っ払わなかった理由は、彼女たちが商売道具を持っていなかったからであった。商品さえ持っていなければ、売りつけられてうとましい思いをすることはない。駐車場に戻ったところで売るつもりでいるのだろう、それなら逃げられると踏んでいた。ところが、ところが・・・。
何と、座ったテーブルの下から、商売道具の詰まった籠が幾つも幾つも湧いてきた。おいおい、勘弁してくれよ。サニ族は20人くらいになっていて、私の回りを取り囲んで立っていた。
まずいぞ。一つでも買えば、パニックに陥ることは目に見えていた。逃げるしかない。私は立ち上がり、慌てて追い掛けるサニ族たちの前を、すたこらと歩き出した。追いすがるサニ族、逃げる私。それでもまだ、行っても行っても振り向けばサニ族だった。
歩いていく私の後ろで、本格的な喧嘩が始まっていた。「アンタたちのせいよ、売れなかったじゃない! 」とやりあっているのだ。サニ語(?) の応酬が、ぼんやりと暑い石林の静寂を破って飛び交う。そのうち、一人の娘はワーワー泣き出し、その一団を背に歩く私は、やっぱりかなりヘンだった。
入口まで戻った私は、もうついてくるサニ族はうっちゃって、座って商いしているオバサンたちを覗いて回った。その中の1つの店で、赤ん坊の帽子を見つけた。中学以来の友人にもうじき赤ん坊が生まれる予定なので、私はそれを買った。結局、石林ではあれだけサニ族を騒がせておきながら、全く関係ないオバサンから帽子一つ買っただけだった。
・・・慌てる乞食はもらいが少ない!?
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