カンランパへ~1989.10-12中国旅行の5

カンランパに向かって、船はメコンを下っていく

朝早く、宿を出て上流の船着き場に行った。思っていたより大きな船が、すでにたくさんの乗客を乗せて浮かんでいた。私たち(私と近大の学生と、昨日知り合ったおじさん)も乗り込んで、何とかベンチに席を占めた。バスのように車掌がやってきて、切符を売ってくれた。1.1 元、日本円にして約33円である。
船は時間通り、午前8時に出航した。鉄の船が、濁ったメコンの水をけたてて進んでいく。両岸にはバナナの木、背の高いヤシの木、その他熱帯植物が繁っている。もやが川一面を覆っている。わらぶきの高床式家屋が点在する。急斜面にへばりつくように、畑が広がっている。

小さな船
急斜面の畑

一度船を岸につけたので、隣のタイ族女性に「カンランパ?」と訊いてみるとまだ違うらしく、彼女は下流を指差した。
停まっているそこは小さな集落の近くで、人が乗り込んでくるようだった。男たちが豚を乗せようとしている。豚は激しく抵抗し、男たちが数人がかりで押さえつけ、甲板に何とか引きずり上げる。豚の悲鳴が高く、長く続いた。

船から下りた人たち
この鉄船から小さな木の船に乗り換える人もいる

もやだとばかり思っていたが、どうやら少し雨も降っているらしい。。どんよりと曇ったメコン、アジアの大河。まさかメコンを船で下ろうとは・・・。

中国とは思えない風景が続く

やがて船は本格的に接岸した。もちろん、そこに港があるわけではなく、ただ単に岸であるだけなのだが。そこが橄欖壩(カンランパ)のようだった。町らしきものは見えず、川からすぐに崖になっているのが見える。この上が町なのだろう。
公安がチェックを始める。一人ずつ身分証を見せなければならない。中国人の身分証は「工作証」というもので、大抵赤いパスケースのようなものに入れて持ち歩いている。私はパスポートを見せてパスした。
一枚の板が船べりから岸にかかっていて、そこを渡っていく。おっとっと、と渡り終え、振り向いて記念写真をパチリ。あとでその写真をみたら、公安がオバサンに手を貸しているのが写っていた。

制服を着た公安が土地の女性に手を貸している。私ももちろん助けてもらった

崖を登っていくと、何と! アスファルトの道路が私たちを待ち受けていた。橄欖壩とは秘境である、と思っていた私は、小さな小さな集落があるのだろうと思っていたのである。そう、大孟龍のように。だが、よく考えてみれば、そんな小さな集落に大きな鉄の船が毎日通うはずがないのである。
カンランパとは、実は町であったか。これはまぎれもなく、アスファルトなのだよな。ここまできてやはり思う、中華人民共和国の力の強いこと。こんな辺境までアスファルトを敷き、電線を張る。これはやはり、すごいことだと私は思う。
突っ立つ私たちに、一人のおばさんが寄ってきた。訛ってはいるが普通語で、どうやらホテルの客引きをしているらしい。中国で客引きとは、本当に珍しい。値段を聞くと4元だと言うので、ついていく。割と新しい4階建ての建物が、目指すホテルだった。県農業局招待所と看板が出ている。1階には雑貨屋もあり、なかなか便利そうだ。私たちには3人部屋が与えられた。窓の外は広い空き地で、その端がトイレである。おもしろいことに、ここの隣が学校なのだが、トイレはどうやらその学校のものであるらしかった。

当時、中国の特に辺境エリアでは、「トイレは別の場所」ということがよくあった。日本でもたとえば私の母が幼かった頃は、家の中にトイレがなく、庭に埋めた壺のようなものがそれであったと聞いたことがある。トイレは「不浄」(私の祖母はトイレをご不浄と呼んでいた)、管理が大変、だから外、というのは普通の感覚なのだと思う。
当たり前すぎて今まで書いたことがないが、ドアや壁があるトイレは稀である。というかまずない。それがあるのは外国人用のホテルだけ。きれいか汚いかと問われれば、卒倒するほど汚いものの方が圧倒的に多かった。でも仕方がないのだ。仕方ないという言葉を覚えるために生まれてきたのかと歌で問われても、だって仕方がないのだよ。他にないのだから。
いやちょっと違うな。仕方ないと諦めていた、のもそうなのだが、同時に立ち向かっていた、のではないかと思う。こんなものに負けないぞ、平気の平左でございという顔をして、その中ですべきことをしていたのが私だと思う。

雲南はミーシェンだ

まだ10時過ぎだったが、何も食べずに来たのでとりあえず賑やかな方に行ってみる。小さな市場がある。両側にズラリと並ぶのは果物売り、野菜売り。そこを抜けていくと粗末な小屋がけのミーシェン屋が並んでいる。

市場の中。歩いてくる女性はハニ族かと思う
ミーシェン屋台の人

竈の上にはミーシェンを茹でる鍋。木の机には刻んだネギや香菜(シャンツァイ)、そして恐怖の唐辛子味噌(辣醤ラージャン)。出てくるときに既にどっさりと入ってくるのに、ここの人たちは食べる前にさらに激しくたっぷりとこの辣醤をぶちこむのである。私などは、
「何も入れるな、何も入れるな、頼む、お願い!」
と叫び、それでも既に鍋に混入してしまったやつだの、丼についてたやつだの、箸についてたやつだので、「オバサン、辛いじゃない」と主人を上目使いに見上げる羽目に陥るのであるというのに。
それはともかく、一人のおばさんの店に腰を下ろし、一杯ずつ注文する。おばさんはまず大鍋で麺を茹で、それを小さな鍋(日本で言うと親子丼用の鍋)に入れ、調味料と薬味を混ぜてざっと煮てから丼に入れる。あいよ、と出てくるそれは、ピリッとくる辛さとミーシェンの優しさ(これは米を食って生きる我々には、やはり優しさという以外にないような気がする)、それに香菜の香りがほどよく混ざっているのである。何より見ている前で作ってくれるという安心感、そして熱々のが食べられるというのはあり難い。

ミーシェンはこんな風にして売っている

いつの間にか雨はやみ、変わって青い空が広がりつつあった。程よい数の人が市場を流れるように歩いている。ここにはあの口角泡を飛ばすといった喧噪はない。何となく、ニコニコ笑うというのではないが、ぼんやりと笑ってしまうのだ。
市場を来た方とは反対に出たところに、書店を見つけた。大体これも驚きだ。書店まであるのだから。中でこの付近の地図を探したのだが、無いということだった。主人のどことなく知識人といった雰囲気のおじいさんに、ハニ族について尋ねてみる。私のつたない中国語と漢字で、しかし主人は質問が分かったようだった。自信を持って、
「それは川の向こうだ。歩いて2時間かかる」
と教えてくれた。礼を言って市場に戻る。私たちは(日本人3人)は、それについて一言も相談しなかった。ただ何となくぶらぶらと歩いていき、何となく川まで行ってみた。すると小さな船がいたので、私たちは当たり前のようにそれに乗った。誰も何も言わなかったのに、今考えればおもしろいことだ。

ハニ族の村へ

船がゆらゆらと対岸に渡る。車掌(?)さんに船が終わる時間を聞くと、6時半とのこと。船着き場からだらだら坂を登っていく。小さな空き地があり、そこにバスがいた。これも実は大変な衝撃だった。バスがいる! 対岸よりはるかに小さなそれこそ集落なのに、バスがいるのだ。
英語と中国語で
[これより先、外国人で許可証のない者の進入を禁ず]
という看板が、木の葉に隠れるようにして立っていた。見なかったことにした。

バスがエンジンをかけ出した。もしかして、このバスは目指すハニ族の村の方へ行くのではないだろうか? 私たちはそう考え、バスの運転手に例の片言・漢字作戦で聞いてみた。すると運転手は「行くよ、乗りな」と言うではないか。すでに発車を待っていたバスのドアを開けてもらって、乗り込んだ。ま、終点まで行ってみっか。
バスは殆ど畦道という感じの道をガタガタと走っていった。途中で少し降りたり、乗ったりして、やがて終点に着いた。下りたところに運転手がやって来て、
「今日のバスは今折り返すやつが最後だから、明日の朝までないよ」
と言った。それは大変、とはあまり思わなかった。そんなにたいした距離を乗ったという感覚がなかったからだ。歩いても帰れるだろうと思った。
ハニ族の村はどっちだろうか、と聞くと、丁度通り掛かった人をつかまえて、「この人がそこへ行くから、ついて行ったらいい」と言ってくれた。
人民服のおじさんについて、細い道を歩いて行った。茅葺き屋根の家が点在している。このあたりが、すでにそうなのだろうか。おじさんは、「あれがそうだ」と指さすと、道を折れて行った。私たちはその指さす方に、歩いていった。

何とものどかな風景だ
数戸ずつ固まって集落を作っている
集落にはため池がある

この時渡った小さな船や、乗せてくれた親切な運転手のバスなど、なぜか写真がない。撮らなかったのか、散逸してしまったのか。見てみたかったと思う。

因みに現在グーグルマップで橄欖壩(カンランパ)を探しても見つからない。勐罕という町がそうではないかと思う。当時どうであったかまったく覚えていない。対岸の村は曼洪あたりではないかと思われるが、これまた正確なところは不明である。(この部分2021年記)