エベレスト街道1・1990ネパールの2

カトマンズでは旧知のネパリの友人に会って食事をしたりしたが、いちばん驚いた再会が前年の雲南~長江下りであちこち合流し一緒だったHさん(後に結婚した)と、イミグレの前の道路でばったり会ったことだった。彼は中国からネパールに回ってきていた。彼の方が先にイミグレに一度行ったそうだが、用紙の書き方がわからないと……(^^;
私の友人は英文科なので英語は得意! 友人に手伝ってもらって3人で用紙を記入した。必然的に彼もエベレスト街道に行くことになった(どこに行くかは決めていなかったらしい)。
それからネパリの友人の助力を得てルクラまでの往復チケット(復路はオープン)を購入した。

それと、トレッキングの方法だが、ガイドなしポーターなしの単独。この当時はそれが当たり前で、個人の単独行者と、グループトレッキング(日本からのツアーなど)の2者が存在し、前者はバッティ泊まり、後者はテント泊と棲み分けも出来ていた。ネパールの政策がころころ変わり、一時はガイドなしのトレッキングは不許可になったりしたが、今はたぶん元通りになったと思う。

ルクラまで

カトマンズ~ルクラ間には、当時唯一の航空会社のロイヤルネパール航空が毎日3便ずつ飛ばしていた。ただこの3便というのは常に変動し、天候状態や乗客の数などで簡単に欠航する。一番望ましいのはとにかく1番機のチケットを取ることだとネパリ友人に教えられ、実際彼がそれを取ってくれた。

1番機は7時前に飛ぶはずで、我々もその時間には待機していたはずだが、実際に飛んだのは10時を大幅に回ってからだった。別の場所に飛んで戻って来る機体を待っていた記憶がある。
15人ほどが乗れる小さな飛行機は前回と同じ。可能であれば左側の席に座ると、ヒマラヤがずっと左手に見え続ける。

下界を見下ろしてみる

平野部は農耕地が広がっている。レンガで建てられた建物がかわいらしく牧歌的な風景に見える。

雪山も見えている
谷を幾筋も越えていく
ドアがないので操縦士丸見え

上の写真はもうルクラが近いと思う。狭い谷を進んで行き、最後に右に90度旋回して斜面に突っ込んでゆく。

無事にルクラ到着

この日は1990年10月7日。晴れていた。

ネット上で見つけたものを借りました。感謝。

パグディンまで

ルクラで昼ご飯を食べて出発。今日の予定はパグディンまで。出発は正午を回ったころだった。

ピンが来てないのはわざとではなくオット氏が撮ったからです

友人のザックがでかいーーー! そうか友人はトラベルバッグの中にこのザックを入れていたんだなと気付いた。
一方の私は88年のアンナプルナで自分の体力のなさを痛感し、荷物は1グラムでも少なくする作戦に出ており、35リッターのザックを背負っている。一応シュラフも、カトマンズで借りたダウンジャケットも、最小限の着替えも、カメラとフィルムも入っている。多分この「最小限」の認識が、異なるのだろう。パンツなんて1週間着っぱなしでも死にゃしないと思うかどうか・笑
それとこの当時は山の中でシャワーとか「ありえない」ことだったから、そういう方面のグッズも何一つ持っていない。日焼け止めは持っていたと思うが、他には何も……。
ガサツな私に比べれば友人ははるかに普通な一般女子なのであり、故に色々なものが必要だったのだと思う。ガサツであればあるほど旅の荷物は少なくできる・笑

そうそう、この旅の前に、初めてカメラを買った。ヨドバシカメラに行って、いちばん安かったマニュアルの一眼レフにした。本体リコー、レンズはタムロンの28-70だったと思う。当時既にオートが主流になりつつあったと思うが、高いし重かったので。リコーのカメラはほんとに軽かった。電池なしで動くというのも気に入った。この旅ではもうひとつ初めて、ポジフィルムも使ってみた。全部ではない(高かったので・笑)。上の写真なんかは普通のフィルムだと思う。

普通の牛? ヤクじゃなくて?
ルクラを出てからの最初の民家かな
荷物運びのヤクかゾッキョ。ゾッキョはヤクと牛の交配種

運搬家畜が来たら避けて通してやる。彼らはおとなしいけれど、頭を振っただけで角がぶつかれば危ないし、崖道なんかだと転落しかねない。必ず山側に避けることだ。

ジャガイモの収穫をしていた
牛にブラシをかけている。牛もまんざらではなさそうだ
遊ぶ子ども
何かの小屋
粉ひき小屋だと思う

夕方4時半にパグディンという村に到着。ルクラから歩き出すとここに泊まるトレッカーが多い。簡単な夕食を取り、日が暮れたらさっさと寝る。この当時はまだ街道沿いのバッティに電気は殆どなく、日が暮れれば寝るのが当たり前だった。

ナムチェまで 11/8

6時半に起きてパンケーキを食べ、パッキングして8時半に出発。
チュモアという村までがけっこう遠い。

集落に着くと休んでお茶を飲む。紅茶のほか、ホットレモンなども場所によってはあった。瓶のコーラなんかもあった気がするが飲んだことはない(もちろん高い)。
ミネラルウォーターは売っていただろうか? 記憶がない。この当時は、水は山小屋で沸かしたお湯をもらっていた。自分の水筒に宿の人が入れてくれる。夜入れてくれるので湯たんぽにし、翌日はそれを飲みながら歩く。それに対してお金を払った記憶はない。宿泊費、食費に込みの感覚だったと思う。

こんな感じの気持ちのいい場所も多い

 

マニ石の塚のようなもの。マニ石には経文が刻んである。これを必ず右手に見て通るようにする
吊り橋
休憩中。オット氏のザックが置いてある
ジョルサレのチェックポスト

パーミットの確認と、国立公園入園料の支払いがある。250Rsだった。

集落の外れにあるバッティで、ララヌードルを食べる。ララという名のインスタントラーメンで、ヒマラヤではどのエリアでももしかすると最もお世話になるメニューではないかと思う。

この先で川底まで下り、そこからナムチェへの急登が始まると思いながら歩いていたのだが、89年11月に橋が完成しており、その下って登るルートは回避できるようになっていた。ありがたい。
とはいえ登ることに変わりはなく、多少距離が短縮されただけだ。登って登って。ひたすら登って1軒の小屋が見えたところが中間地点くらいかな。ここで旧道と合流する(今そちらを行く人はいないと思うが)。

ジョルサレか、途中の山小屋で友人と子どもたち

ナムチェへの登りはきつい。重い荷物を持った友人と距離が離れてしまう。一本道の時は申し訳ないけど先に行かせてもらい、分岐があるとそこで待っているようにした。

ほんとにきつかったらしく、写真をまったく撮っていないようだ。
3時頃には到着する予定だったが、のんびり歩いていたので到着は4時を回っていた。友人が来る前に宿を確保。前年泊まった宿(ホテル・タムセルク・ビュー)がよかったので行ってみたが満室、別館のドミに行くことに。後で聞いたらガイドブックに載ったらしくトレッカーがわんさか来るようになったんだとか。
ベッドを3つ確保してから村の入り口あたりまで友人を迎えに行った。

ナムチェは標高3440mと富士山の9合目とか? そんな感じの高さだ。朝出てきたパグディンとの標高差が800もある。通常、1日の標高差は600で抑えるべき、ということがよく言われているので、それを越えている。頭痛などの高山病の症状が出ておかしくない。
私はパグディン、ナムチェとまったく眠れず(これは高度障害ではないと思う)、ちょっときつくなった。友人とオット氏はその意味では元気だった。