エベレスト街道8 カラパタール、ゴラクシェプの朝

1990年秋のネパールトレッキング記録です
旅の直後に書いた旅行記が出てきたのでそれをメインに書いています

(承前)

頂上には30分くらいいたが、プモ・リの雲は全く晴れる様子もなく、正午を過ぎたので下ることにした。エベレストが下るにつれて小さくなっていくのが惜しい気分だったが、とりあえず一つ目的を果たした安堵感と満足感に包まれて、どんどん下って行った。

砂地へ下る最後のあたりで、友人に会った。彼女は相当高度障害に苦しんだらしく、11時頃に到着したとのこと。頭痛はあるけれど、その他は元気なようすだった。彼女がもう1軒の小屋に荷物を入れたと言うので、そちらへ移ることにした。最初の小屋からは岩場の陰で見えない位置にある小屋で、こちらの方が空いている感じだった。
友人が頼んでおいてくれたチャーハンを食べ、チャを飲みながら、ようやくカラ・パタールに登ったという実感が湧いてきた。日差しの暖かい外で、下りてきたばかりのカラ・パタールを見ながらそう思うのは、なかなか良いものだ。友人は、今日はこのまま休んで明日登ることにすると言い、あたりを散歩して時間をつぶしつつ高度順応に励んでいた。

氷河湖?

することもないので、私も砂地をあっちこっち歩き回り、湖やベースキャンプへ続くルートを少し行ってみたり、カラ・パタールへまた少しだけ登りかけてみたりしていた。振り返るとベースキャンプからヤクのキャラバンが下りて来ているのが見えた。積雪が残る砂地でそのキャラバンを撮りたいと思った私は、丘を走り下りて先回りをし、フィルムに収めた。

ヤクのキャラバン

やれやれ、よく間に合ったと彼らを見送り、ブラブラ歩いて小屋に戻った。そしてカメラを手に取った私は、ベルトにはさんだはずの撮影済みフィルムが無いことに気付き、愕然とした。今朝、ロブチェからここへ来る途中で取り替え、カラ・パタールの上で巻き戻したフィルムだ。いわば、メインイベントの部分だから、それをなくすなどとんでもない話だった。
再び砂地に引き返した私は、自分が歩いたあとを捜し回った。湖の岸、ベースキャンプへの道、カラ・パタールのとりつき口、でもフィルムは見当たらず、そしてこの広い土地でそれを探すのは不可能のように思えた。まして砂地には積雪がある。雪の中にスポッと入ってしまったらそれっきりだ。

がっくりして小屋の方へ歩きかけた私は、雪原の中に白以外の色をした物があることに気付いた。走って行ってみると、それは間違いなく私が落としたフィルムで、雪の上にちょこんと顔を出した、小さな石の上に置いてあった。石の上に落としたとは考えがたく、誰かが拾って、石の上に置いてくれたのだろう。それもまた、私には奇跡の一つだと思えた。
後で友人にその話をすると、彼女は私が砂地を走り回るのを上から見ていたと言い、
「あ、探し物をしていたのか。てっきり、ジョギングだと思ってた」
と言った……。いくら私がアホでも5200mでジョギングはしないわー(^^;

夕食の時間が来た。皆、頼んだものを大人しく待っている。私たちも注文したもの(ダルバートかシェルパシチューあたり)を楽しみに待っていると、どやどやと例の日本人4人組が現れた。晴れたので出発してきたのだろう。それはいいのだが、小屋のカンチャ(小僧さん)に注文を出しながら、何か激しい口調のネパール語で付け加えている。私はネパール語がまるでわからないが、それでも大体何を言っているのかはわかった。
自分たちのを先に作れと言っているのだ。あるいは自分たちに先に出せと。
待っている各国の人々は、一様に嫌な顔をした。誰も言葉はわからなくとも、わかったのだ。
この人たちが海外青年協力隊員だというのは、ロブチェで大声で喋っていたから知っていた。現地語を学んでいるので言葉ができる。格差の激しい、身分制度の厳しい国である。上の人間は下の人間にとことん横柄で威張りくさっている。この人たちが、そのまんま、それであった。
この4人には、待っている人たちを差し置いてダルバートが運ばれた。彼らは当然のようにそれを食い、そして寝場所に去って行った。厚顔無恥とはこのことだと思う。

こうして、カラ・パタールの一日は過ぎた。幸い、寝る時になると部屋は比較的空いており、件の日本人たちとは離れた場所に寝ることができた。屋根の煙穴から降るような星をながめながら、シュラフにもぐって眠りにおちた。

「天上の夜明け」-ゴラクシェプの朝

翌朝は、何があっても起きたらすぐカラ・パタールへ登ろうと決めていた。寝坊は怖いが、今までも真先に目を覚ましてきたし、寝るのが早いから夜明け前には起きられるだろうと思った。それに、この最大のヤマ場で寝坊しているようでは、今後の人生も見えたようなものだろう。

5時だった。夜中に一度トイレに立ったときは晴れていたが、今はどうだろう。シュラフの中に抱いていたダウンジャケットを着込み、外に出た。やった、雲がない。足元が見えるくらい明るくなったら、出発しよう。
ヤクが数頭、小屋の前で鈴を鳴らしている。しゃがんでいる所を後ろからつつかれたりしたら困るから、遠く離れた岩の陰をトイレにした。星を見ながら、というのもなかなかしゃれている。ただし、滅法寒いのが難点ではあるが。

小屋に戻り、静かに支度を始めた。友人を起こしてみたが、体調があまり良くないのか、乗り気ではない。無理に誘っても仕方無いし、大体ペースが違うのだから一緒に登れるとも思えない。とにかく私は登るぞ、これが夢だったんだから、誰も待たないぞ。などと思いながら、ザックに荷物を詰め込んで行った。小屋の中ではまだ誰も起きる気配はなく、昨夜詰めておいた水とビスケット、他にカメラ用品を布の袋に入れた。登る最中は暑いだろうと思い、ダウンジャケットは置いて行くことにした。風よけの雨具を着て、まだぼーっとしている連れに声をかけ、小屋を出た。夜明けにはまだ遠いが、もうライト無しで足元が見えるほどに明るくなってきていた。

「よし、行くぞ」と自分で気合を入れ、カラ・パタールへの砂地をグングン歩いて行った。標高5160mのこの地に、今起きて動いているのは私だけだった。ヒマラヤに入って以来ずっとそうだったが、この静寂はどうだ。
日がすっかり昇った後の街道は、トレッカーが行き交い、そのカラフルな服装と楽しげな声があたりを明るくする。山特有の、哲学的内省を誘う静寂が、そんな日中は時に姿を消す。けれど早朝と夕方は、トレッカーたちは寝ているか小屋の中で談笑しているかなので、山はとても静かだ。そういう静寂の中で山や空や雲を見ていると、自分もまたこの世界に配置された、一個の静物に過ぎないと思うことがある。雲は生まれ、流れ、消えて、再びどこかで生まれる。同じように人は生まれ、流れ、消えて、再びどこかで生まれるのだ。ならば何を思い患うのか。動いているというよりは、動かされているのではないのか。考えているというよりは、考えるように促されているのではないのか。

まだ薄暗い丘を登りかけながら、そんなことを考える。道は苦しく、一晩たったから、昨日一度登ったから、それで少しは楽になるということもない。却って昨日よりも苦しい。やめればやめてしまえるからだろう。二度も登ることはない、もうエベレストもヌプツェも見たじゃないか。そう思えば引き返すことができるからだ。引き返して、竈の側に陣取ることもできるからだ。それでも登るのは、ただただ、美しいものを見たいから、なのだろう。一生に一度かもしれない、この世界最高峰の麓の、夜明けの景色を見たいからだ。
夜明けの空気は冷たくて、呼吸が苦しい。特に空気が薄いということは感じないが、登りの辛さはやはり格別のものがあるかもしれない。たいして強くはない風に、耳が凍りそうだ。

徐々に夜が明けていく。遠い山に少しずつ光が当たり始める。プモ・リが輝き出すのももうすぐだ。朝のエベレストは、太陽を背負うので撮れないと聞いていた。エベレストの側から日が昇るなら、プモ・リは狙えるはずだ。昨日は雲に消えてしまったプモ・リだから、どうしても撮りたかった。

雲もなくプモ・リが静かにそこにいる

時々立ち止まり、休みがてら周囲にレンズを向ける。こんな明るさで撮れるのかどうか不安だが、駄目なら駄目でかまわないと思い、撮りたいものは撮ることにしていた。

もうじきエベレストの肩から太陽が顔を出す

やがて、来た。プモ・リに光が当たり始めた。登りながら、ちょこちょこ止まってはプモ・リを集中的に撮り続けた。この中でどれか一つ、いいのが撮れていてくれれば……。そうしていたのは、どれくらいの時間だったのか、覚えていない。

プモ・リの山頂付近にだけ日が当たる

そのうちプモ・リの輝きは終わり、ヌプツェの肩から朝日が顔を出し、エベレストもヌプツェも逆光の中に入ってしまった。それから30分くらいして、私は再びカラ・パタールの頂上に立った。
頂上独り占め、と思ったら、先客がいた。フランス人らしく、一人でパシャパシャと写真を撮っていた。彼を一枚撮ってあげるかわりに、私も撮ってもらう。そのうち彼はもう一つのカラ・パタールに登ると言って、向こう側に下りて行った。

そして私は一人になった。……風が少し吹いていた。下を見ていると、連れがパサン少年と共に、もう一つのカラ・パタールに向かって歩いていくのが見えた。私に少し遅れてオット氏も登って来た。山頂で握手する。

視界は360度、遮るものは何もない。プモ・リの頂など、まるであと少しで手に届きそうな距離に見える。空気は冷たく澄んでいて、この丘の頂を吹きすぎる風が心地よい。今、南から吹いてくる風は、北へ中国との国境を越え、チベット高原を吹いて行くのだろう。逆に北から吹いてくる風は、チベットの上を吹いてきた風で、これからインド平原まで渡って行くのだ。そんなことを思っていると、風も苦にならない。
すっかり夜が明けたあたりは、日の光で一杯だ。これまで一体何度、ここで夜が明けたのだろう。天文学的な回数なのだろうが、その中で一番新しい1つのドラマを自分が見たということは、なんという幸せか。どれだけお金を出したところで、決して手に入れることができないものを、手に入れてしまったのだ。もちろん、それは何の形にも残らないものだが、先のことはともかく、今この瞬間、確かに私はそれを持っている。

夜が明けていく一瞬一瞬の、空の色と山の色の変化。光が当たる雪山の輝きは、何千カラットのダイヤモンドも遠く及ばない。雲がオレンジ色に染まり、鳥が低く舞う。聞こえるのは風の音と自分の呼吸、そして、山々が立てるひそかな音だけ。五感の全てに響き、身体の奥深くにゆっくりと、温かくしみていくヒマラヤの呼吸。神々の呼吸。

私は無信仰で無神論者であるが、この時ばかりは「神はいる、ここにいる」と思った。

丘の麓近くを、複数の人が歩き出したのを機に、腰を上げた。岩また岩の部分を下れば、ゆるい傾斜のでこぼこのない斜面になる。よく見ると、枯れたように見える花が咲いている。
まっすぐ下ってしまうのが惜しくて、鞍部の大きな大きな岩によじ登った。麓から登り出した人は、まだここまでは着いていないのか、あるいは別の方角へ回ったのか、あたりに人影は見えない。太陽は下りていく方向からサンサンと照り、エベレストとヌプツェがその光を背に眩しく輝いている。プモ・リを振り返れば、紺碧の空をバックに雄々しくそそり立ち、南の方には浮き雲がたなびいているのが見える。ここはまさしく天上の世界だ。冷たい岩の上に寝ころんで空を見上げれば、そのままフワリと浮き上がることができるような気がする。

途方もなく贅沢で豊穰な時間を、ここ数日過ごさせてもらった。雪があり、雪止みの朝があり、雲があり、霧晴れの朝があり、そしてカラ・パタールの2日があった。空があり、雲があり、山があり、雨露を凌ぐ小屋があり、火があり、人がいる。それ以上の何を望むというのか。母国日本で私が持ちえていた、そして持ちえるはずの殆ど全ての物が、確かにここにはなかった。だが、日本で私が持とうとして持ちえない、殆ど全ての物が、ここにはあったのだ。
私は再び丘を下り始めた。何度も何度も立ち止まり、もう来れないかもしれないカラ・パタールからの景色を、フィルムに収めた。振り返るたびにプモ・リは遠くなり、エベレストも見える部分が小さくなっていく。足を踏み出すたびに私は下界へと戻って行くのだ。
下界……。ゴラクシェプの先にはルクラがあり、ルクラの先にはカトマンドゥがあり、その先にはバンコクがあり、そして東京がある。それが悲しいわけでもないのに、何故か歩きながら私は苛立っていた。腹立たしいような、悔しいような、説明しようのない気分に襲われていた。そんな気持ちを半分抱いたまま、私は残りの下りを一気に下りて、ゴラクシェプの小屋に戻っていった。

聳えるプモ・リ

注・水、とあるが当時ミネラルウォーターはなく、各自が持参の水筒に宿の人が熱湯を入れてくれ、それをシュラフの中に入れて眠った。そうしないと凍るので。