1988中国シルクロードの旅(9)敦煌

2020年6月23日

柳園で下りると、敦煌へ行くバスは出たばかりだった。しばらく待つことになる。列車内で隣のスペースにいた中年の男性2人が、「あのバスに乗れたらいいな、聞いてみよう」と、団体旅行のバスに突撃していくのに付き合った。そのバスは、日本からの団体さんのバスだった。すげなく断られたおじさんたちは、「そいじゃこの娘だけでも。同じ日本人じゃないか、乗せてやれよ」と言ってくれたが、もちろん断られた。しばらく待ってようやく来た公共バスはすでに乗客でびっしりで、最後部の席に無理やり収まる。大きな荷物を屋根に載せることもできず、車内持込。おじさんの1人が私のディパックをずっと抱えていてくれて、感謝。頭が下がった。敦煌までは3時間ちょっとだった。
敦煌のバス駅に着いておじさんたちと別れ、宿を探す。駅前の飛天飯店というところは15元だというのでやめ、第二招待所にうまく空きがあったので入り込む。1泊5元、人民元払い。
敦煌の町はやたらとデパートだらけだった。デパートといっても日本のそれとはもちろん比較にならないが、○○貿易公司、○○大楼、○○商場、○○門市部などなど、大き目の商店がたくさんある。これでやっていけるのか、心配になるくらいだ。

翌朝、悪夢を見ていてはっと目を覚ますと、時計は7時40分。飛び起きる。莫高窟へ行くバスが8時なのだ。我ながらすごい速さで支度をして飛び出す。バスは既に中国人乗客で一杯だった。

莫高窟に向かって歩いて行く

莫高窟の入り口。中国人は5角、外国人は6FEC。ガイドは中国語のみ(とほほ)。欧米人10人ほどのグループと私が一緒に束ねられ、中国人ガイドに連れられていざ出発。しばらく見学していると、すぐ近くで日本語が聞こえる。見ると日本人の団体が来ていて、日本語のガイドが付いているようだ。私を引率していたガイドが気を利かせて「お前、あっち行け」と言ってくれたので、その団体さんにお願いしてみるとあっさり「どうぞ」とのことで、ありがたく後ろからくっついて歩いた。
しかし、この頃の莫高窟は、お世辞にも「すばらしい」とは思えない場所だった。
もちろん、別料金を払って特別な部屋を見れば違ったのかもしれないが、一般人が見られる部屋はどれも明らかにペンキで修復されており、それが目も当てられないようなひどさで、仏像なども高校の文化祭のハリボテくらいにしか見えなかった。テレビで見るほうがよほどいい、と思ってしまった。暑かったし、疲れていたし、中国にも中国人にもうんざりしていたし、だからそんな風にしか見られなかったのかもしれないのだが。
団体さんは午前だけで帰ってしまい、午後はまた最初のグループに戻って見学の続き。何だかどうでもよかったのだけれど、帰るのもバスの時間が決まっていたし、チケットは1日料金だったので・・・。

翌日、再び下痢。前夜、食べるものが何もなく、牛肉麺を食べたのが悪かったのだろう。またしても気分が萎える。
銀行で両替。
それから月牙泉へのバスチケットを買いに行く。「酒泉行きキップ売り場のくそばば、死ね!」と手帳にメモってある。私はこの後で酒泉へ行く事にしていたらしい。

夕方、月牙泉へのバスに乗る。着くとらくだがたくさんいて、「乗れ、乗れ」と言って来るのを振り切って徒歩で登る。砂がどんどん崩れるので、なかなか進まない。砂山のてっぺんに着くと、麦わら帽子をかぶったおばさんたちが大勢、かごに汽水(ジュース)を入れて座り込んでいるのがおかしかった。
登るときに前後していた中国人男性5人のグループが、泉に向かって駆け下りながら、私に「早く早く!」と叫んでいる。私も負けずと転げ落ちはじめる。

月牙泉のある砂漠。
夕方なのだが、暑かった。
「早く早く!」のおじさんが、「あんたは何をしている人なの?」と聞くので、「大学を卒業して、今は旅行をしています」と答えると、ふうんと楽しそうにうなずき、「それはね、流浪人、ということだね」と教えてくれた。「リゥロゥレン」というような発音かと思う。言いえて妙、だと思った。

月牙泉、三日月のように見える? 見えない?

フィルムケースに砂を取って遊んでいる私。ジャージだし(笑)
当時の中国では、ミネラルウォーターは売っていなかった。もっとも、当時日本でそんなものを飲んでいた記憶もないのだが。買える飲み物がほとんど何もない状況の中、この緑色の瓶の中身はぶどう酒である。せめて白にしたよ、せめて。
置いてある赤いディパックは中国のどこかで買ったもの。
「旅の楽」とプリントされていて笑った。速攻でチャックが壊れ、続けて持ち手が取れた。

だんだん日が落ちてきて、砂漠が金色に見えた

さらに東へ

敦煌から酒泉へバスで移動。途中、世界一風が強いと言われる(中国人が言っているのか)安西にバスが止まる。
これが安西の道路。たしかに風がびゅうびゅう吹いていた。ポプラも傾いて見える。ここではバスが何台か停まっており、私は少し離れたところで「早く出ないかな~」と座り込んで待っていたら、1台のバス(自分のじゃないと思い込んでいた)が動き出しながら、車掌か誰かが私に向かって大声で何か叫んでいる。え??? と近づくと、何とそれが私の乗ってきたバスだった。
危うく置いて行かれるところだった……。

酒泉に着き、人に尋ね訪ねなんとか宿を確保する。たぶん酒泉賓館だろう。「床が木だ! 茶碗がある! 茶葉がある!」と、えらく感動した様子がメモってある。普段どういう宿に泊まっているのか、この人は。
4角の路線バスで列車駅に行き、次の町へのキップを買おうとするが、「当日来やがれ」と言われてすごすごと戻る。中国は、いつもいつも、こんなもんである。

翌日、嘉峪関列車駅へバスで行き、近くのホテルで自転車を借り、嘉峪関の遺跡を目指した。巨大タイヤの人民自転車鳳凰号。ハンドルがでかく重く、扱いが大変だった。途中からは道がダートになり、もう嫌……。
このような道をふらふらと走って参りましたの。
帰りも同じだけ走らなくちゃならないと思うとぞっとしましたわ。

修復工事をやっていた嘉峪関。誰もいなかった。
この日の夜中に酒泉を通過する列車に乗る予定だったので、ここでひたすら時間を潰した。誰もいない城壁で何時間も空を見たり昼寝したりした。


崩れかけた長城そのもの。高さは1mもなかったと思う。もちろん風化したのだろうけれど、ずっと昔、馬が越えられなければよいという考え方で、こんな端っこの長城は低かったらしいですね。
あまり遺跡などには興味がない私だが、こういう風化したものにはぐっとくるものがある。何でもかんでも修復すればよいというものでもないなと思う。