1988中国シルクロードの旅(10)西安

酒泉から西安へ列車旅

酒泉の列車駅に夜9時に行った。列車が来るのは定刻で午前2時過ぎ。そんな遅くに動くわけにはいかないので、このような羽目に。
広い待合室は壁に沿ってぐるりとベンチが置いてある。そこにわしゃわしゃと人がいる。私もその中に混じっているのだが、人々の視線が痛いくらいだ。1度、解放軍の兵隊が話しかけてきた時には、「すわっ!」という感じで人だかりができた。パンダか、私は。
午前1時過ぎにキップ売り場の窓口が開く。全員が殺到する。負けずと闘うが、勝ち目はない。でもここでは、基本的に硬座以外買えないので、闘ったってさほど意味はないのである。でも闘う。それが中国。
定刻からさほど遅れずに列車が入ってくる。人々と一緒にやみくもに突っ走り、やみくもにドアに突撃し、中に雪崩れ込む。硬座はさほど混んではいないのだが、1人が数人分の座席を占領して眠っているので、それをたたき起こしてまで座るのもめんどくさく、デッキに場所を占める。こんなところは気が弱いままだ。車掌が通りかかったので、車長の居場所を聞き、荷物を持って「空きベッド」を聞きにいく。今はまだない、とのこと。空いたら教えてくれるというのでまたデッキに戻り、ザックに座ってうとうと。中国の列車の床は、靴底でも踏みたくないくらいに汚いのが常なのだが、うん、もうそういうことも言っていられる状況でもなく・・・。情けない。
夜明け前に車長が呼びに来てくれて、ベッドが取れた。心底ほっとした。ベッド代、36.2元、人民元払い。

列車の中は、それはもう、しんどい、汚い。
どういうわけか乗り込んでくる人たちは大量の食べ物を持っており、それを食べ続ける。食べ過ぎて吐いている女もいるくらいだ。そしてゴミはすべて足元か、よくて窓の外。ガラスのものは叩きつけて割る。性格悪すぎ。服務員も横柄で、「行け! どけ! 出せ!」。人民のために服務しろ、と言ってやりたい。

西安

こうして乗ること40時間あまり、列車は西安に着いた。石炭の粉まみれのザラザラ状態。すさまじく暑い。それだけで不快指数は100%を超えている。
駅前でバスをさがす私の腕をつかみ、タクシーに乗せようとする男1人。ふりほどいて「何すんだこのやろう!」と絶叫。中国、頼むから私を怒らせるな。私は本来、それほど怒りっぽい人間じゃないんだよ。なのに中国に来てからというもの、毎日毎日、怒ってばっかりだ。

宿は何タラ招待所。12元、人民元払い。2人部屋だが、私1人だった。

西安では、ロバ車が売りに来ているトマトを買ったことと、それを食べ過ぎて腹を壊したことと、中国で初めてパンダ模様のアイスキャンデーを食べたこと、くらいしか記憶にない。
バスで遺跡巡りのようなツアーに参加したが、暑くて、何を見てもばかでかいばっかりで、ちっとも印象に残っていない。


どっかの遺跡。暑い!
あ。
「人体」という名の奇妙な展示館に入ると、そこには人間の様々な器官がホルマリン漬けになっており、グロで参った。中国人は大喜びで見まくっていた。

これもどっかの遺跡、ただただ暑い!

あとは列車のチケットが買えないこと・・・。
もう、いい加減にしてくれ。
マジで買えない。
あっち行ったりこっち行ったりさせられる。
時間が来ても窓口は開かず、逆に終了時間が来る前に勝手に閉まる。
やっと番が来たと思うと目の前で茶を入れ始める。
後ろや斜め後ろや斜め下や斜め上から窓口に腕が突っ込まれてくるのを、振り払い、時には後ろ蹴りし、くるっと振り向いて怒鳴りつけたり。
窓口の奴はめんどくさそうに「没有」だけくり返す、調べもしない。
「隣へ行け」とか言いやがる。
また並ぶ。
どいつもこいつも割り込んでくる。
休み時間になってしまう。
また並ぶ。
どいつもこいつも割り込んでくる。
注意しても何してもへらへらしてるか聞こえないふりするかだ。
それでもひたすら、くそ暑い中、押し合いへし合いしながら並ぶ。
今日が終わってしまう。
全員ぐるで、全員あほで、全員死ねばいい。

2日がかりでようやく上海行きの2等寝台を手に入れる。中段だけど、もう何でもいいです。

 

最後の移動、上海へ

待合室は大混乱状態で、それを整理する服務員がメガホンで怒鳴りまくる。私が乗る列車の人間が集められ、2列に整列させられ、その間怒鳴られっぱなし。後ろからはぎゅーぎゅー押してくるし、前は壁みたいに動かないし、で、ちょっと横にずれようとすると怒鳴られる。やっと出発と思うと、そのまま行進させられてホームまで。幼稚園かよ、ここは。
やっと乗り込むと、そこは今まで見た中で最悪の寝台車だった・・・。積み重なったゴミの上を歩いていく感じ。もう嫌だ。

自分のベッドにたどり着くが、荷物置き場は既にふさがっている。ちょっと寄せれば置けそうかなと思い、そこの人たちに身振りで言ってみるが通じない。やおら立ち上がったおじさんが、ベッドの下に放り込んでくれたので一瞬むっとする。だって汚いんだもん、床。
しかし、最悪の寝台車だったにしては、乗り合わせた人々はたいへん親切で楽しかった。筆談続きでくたびれたけど。
中でもザックをベッドの下に突っ込んだおじさんは、退役軍人だそうで、私の年齢を「14歳」と断定して決して説を曲げない。パスポートを見せてもダメ。そして「どうして子どもが1人で旅行なんぞしているのだ、親はどこにいるのだ」とえらい心配のしよう。あげく、私がトイレに行くのも歯磨きに行くのも、ついてきてくれる。駅に停まれば一緒に降りてくれて、何ぞ買えと言ってくれる(もちろん支払いは私だけど)。ありがたかった。

ただし、全員で雑談しているときに、
「日本にはこんなに速い列車はないだろう?」
という話になり、私が「いや、そんなことは・・・」と答えるより早く、他の誰かが
「なぁに、すぐに作れるようになるさ。なんだって中国が教えてあげるよ。大昔から、中国と日本はそういう関係だろ?」
と、真顔で言ってくれたので、何も言えなくなった。
おまけにこの人、さらに
「中国は兄さんで、日本は……?」
と私の顔を見るので、
「日本は……、弟弟(ティーティ、弟のこと)っす」
と答えるしかなく。
その瞬間の、その車内に漂った何ともいえない満足感と日中友好ムードを、ほんと、どう表現したらいいんだろうか。
この当時の中国の人々は、日本が中国よりも進んだ産業国であることを知らず、日本に対して鷹揚な気持ちを持っていたのではないかと思う。あるいは、何となく知ってはいるけれど、具体的にはわからないし、何より認めたくないという気分もあったか。ともかく、当時の中国で、強烈な嫉妬やライバル意識、近親憎悪を剥き出しにされて怒りを感じた、ということはあまりなかったように思う。あくまでも記憶に過ぎないが。

そして上海

30と数時間をかけて、上海に着いた。
バスを間違えて乗り、かなり歩いてようやく見覚えのある浦江に着いたときは、感無量だった。
ここから出発していった。そして2ヶ月近く旅して歩いた。あとは帰るだけなのだ。
帰国は船に決めて、チケットを買う。2万5千円くらい。今より高かったのか、中国で買うと高かったのかな。
船の出る日まで雑技を見たり、南京東路で買い物をしたりして、上海を後にする。

旅の総費用は18万円ほど。往きの飛行機代も帰国の船賃も込み。中国内でも2度飛行機に乗っている。当時の中国は、ほんとうに物価が安かったのだなと思う。

船が岸壁を離れ、浦江も和平飯店も遠ざかっていくのを見ながら、
二度と来るもんか!
と本気で思った。
絶対に、二度と二度と、こんな国に来るもんか、と拳を握り締めた。

それなのに、1年と少したって、私はまた中国大陸に足を踏み入れてしまうのだ。何も学ばない人というのは、私のことかもしれない。

※文中、見苦しい表現もありますが、この当時の私のナマの声でありますので、ご容赦いただきたく。私はこれでも、かなりの親中家でありますので。

 

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