1988中国シルクロードの旅(5)カシュガル

2020年6月23日

トルファンからカシュガルへは、バスで2泊3日。当時はまだ、ウルムチ~カシュガル間の鉄道は存在していなかった。
この当時、中国には外貨兌換券と共に外国人料金というものがはびこっていた。外貨兌換券はとっくに廃止されたが、外国人料金はどうだろう?
列車や飛行機の値段は常に外人料金を課せられる。もちろん、列車でも硬座という3等座席車に乗れば、もしかすると見逃してくれたかもしれない。いや、見逃してくれた、多分。別に書くけれど、たしか乗車後に買った寝台券は、人民料金だったのではなかったか。
そんな時代でも、バスには外人料金は存在しなかった。貧乏人が乗るものだからだろう。外国人がそんな不便な乗り物に乗って旅行するなどと、当時の指導者たちは考えもしなかったのではないか。
ところが。
トルファンのバスチケット売り場(当時はバス駅などというものは確か存在せず、広場の一角に小さな小屋があって、そこで買った記憶がある)では、ウイグル人の係員が外人料金をFECで払えとしつこいのである。延々並んでようやく得た私の番という権利である。何が何でも離してなるものか。後ろから、横から、斜めから、下から、隙あらば突き込まれようとする後ろの奴らの手をはねのけ、体当たりを食らわしながら小さな窓口にしがみつき、人民料金分の人民元を放り投げる。外人料金などという規定はない。ただ単に、もし払ってくれちゃったら儲けもの、くらいの感覚なのだ。根負けした係員は舌打ちをしながら、キップを切ってくれた。40元弱。3日のバス旅が、800円弱である。
尚、当時の中国では、お金や品物は投げるものとして人々に認識されていた。非常に品のない行為であるけれど、郷に入れば郷に従え。戦わなければキップ1枚手に入れることはできないのである。戦うことが嫌ならば、戦えないのならば、誰かにしがみついてその人にお任せしてしまうか、すごすごと帰るか、もしくは完全に「外人」としてお金を余計に払ってまともな扱いを得るしかない。そのどれも、小娘とはいえ日本女子の私には願い下げであった。
そうしてみんな強くなっていったのだ。この頃の中国では。

あったりまえベンチシート5列。私は2人掛けのベンチの窓側だった。隣に太った人が座ると車体に押し付けられて痛い。
朝9時にトルファンを出たバスは山越えをしてから砂漠地域に入り、夜8時に大きな町に着く。ここで宿泊だと思うとさにあらず。バスを降りて様子を見ていると、私の周りに2重3重の人垣ができる。同じバスに乗っていただろう人も取り囲んでいる。別に危害を加えようってことではなく、とにかく見物。このルート上ではどこでバスを降りても、気づくと私の周りに人垣ができていた。同じバスには白人も2人乗っていたのだが、これがカップルで近寄り難かったせいもあるのか、無防備な私に興味が集中。しんどかった。
結局、初日は夜の11時まで走ってようやくどこかの町のバス駅に到着。そのまま駅の宿泊施設に全員まとめて放り込まれる。1ベッド7元。
翌朝は7時、新疆時間5時の出発だという。北京時間、北京夏時間、新疆時間の3つがあったので、非常にややこしかった。そして時間が守られることも一度もなかった。

2日目の朝の出発は、結局8時半。6時半からバスの前で待っていた乗客は全員プンプンである。

移動中の飯屋。
運転手の気が向くと勝手に停まってメシ、ということになる。
2日目の夕食は同じバスのオーストラリア人カップルを連れて。言葉が話せず漢字も読めない彼らにとって、私は通訳に見えたのだろう。3人でごはんとおかず3品をシェア。全部で5元5角。
店でうろちょろしている小さな女の子と友達になる。あやとりをしたり、地面に絵を描いたり。この子の母親なのだろう、スカーフをかぶった女の人が、細い路地の向かいの軒下で豆の筋を取りながら、心配そうにこちらを見ている。真っ黒な目をして、頭にいっちょまえにスカーフをかぶって、ちびたサンダルをつっかけた女の子。名前を聞いたが、忘れてしまった。
バスが出る。運転手が乗り込み、クラクションを鳴らす。すこし先の食堂の前に、車体を斜めに傾げて停車していたバスに、あたりから湧いてきた乗客が乗り込んでいく。私も女の子と手を握り合って別れ、バスに乗った。
席に座ってほっとすると、小さくて澄んだ声が近くで聞こえる。おや、と開けた窓から外を見ると、さっきの女の子が呼んでいる。お互いに通じる言葉はなく、ただ笑って手を振り合う。そのうちに女の子が背伸びをして手を伸ばしてきた。その手を握ろうと私も窓から身を乗り出すのだが、いかんせん女の子が小さすぎて届かない。見かねた近くのおじさんが女の子を抱き上げてくれた。急に近くにきた女の子は、私の手をしっかり握り、私の目をまっすぐ見つめ、「コシエミカ」と言った。「え?」と私は聞き返す。女の子はもう一度、まるで母親が幼児に言い聞かせるかのような熱心さと愛情を込めて、「コシエミカ」と言った。
ウイグル語はまるでわからないが、さようならと言っているに違いない。私も「コシエミカ」と返した。もう真っ暗な中、食堂から漏れる光を受けて、女の子の瞳がうれしそうに光った。
バスは走り出す。夜の6時。北京時間では8時。
私はこの町の名前すら知らない。当時もわからなかったし、今もわからない。

このような風景の中をひたすら走り続けた

2日目は夜11時過ぎにようやく終了。しかし予定のアクスではないという。アクス行きの乗客たちは「走れ」と騒ぐし、カシュガルまで行く乗客はさっさと降りてしまうし。翌朝は北京時間6時の出発だとか。新疆時間4時である。まじか……。

3日目の朝は結局7時半に出発。新疆時間5時半、まだ夜も明けない真っ暗闇だ。月に照らされての走行だった。
この日は晴れて、右手にずっと雪の山脈が見えていた。
遅れに遅れたバスはまともな食事休憩も取らずに走り続けた。
トイレに行きたくなると、みな席を立って運転席近くに行く。バスは運転席と客席の間に仕切りがあり、その中には運転手と助手または家族がいる。そこで仕切りを叩くとか、訴えるとかして、そういう人が何人もになったりすると、バスは停まるのである。
この日は私もバスを停めた。途中の集落で隣に座っていたおばさんがゆで卵を買い、私にもくれたので喜んで食べたのだが、どうやらこれに当たったらしかった。有り体に言えば、お腹を壊したのである。
停まるまで我慢しようと思った。何しろ23歳の娘である。誰かが停めてくれるのを待とうと思ったのだが、どんどん限界が近づき、やり過ごしてもやり過ごしてもまた限界が訪れる。脂汗たらたらである。仕方なく私は立ち上がり、前に歩いて行った。運転手はでっかいハンドルを握っているので、私が仕切りの外にいることなど気づかない。大きな音で変なロック系音楽もかかっているし、バスの振動の音だけで相当だ。
仕方なく私はどんどんと仕切りを叩いた。助手がこちらを見る。「トイレ!」と叫んでみる。だめだめと首を振る。「トイレ!」また叫ぶ。無視される。冗談ではない。もう限界である。「死ぬ!」と叫んでみる。中国語はわからないので日本語で。後はもう、とにかく仕切りにしがみついて、「停まってくれ」を連呼。別におじさんが1人来てくれた。この人もトイレらしい。2人で仕切りを叩いて哀願する。
ようやくバスが停まってくれた。助手が「1分!」とか言っている。言ってろ、ばぁろー。ドアを開けて道路に飛び降りる。さて、どうする。どこへ行こうが身を隠すものなど何もない。ただただどこまでも広がる土漠の真っ只中だ。おじさんが「お前あっち」と後ろを指差す。おじさんは前へ行くらしい。ほかにも何人かウイグルの男性が降りてきたが、皆前へ行く。私は後ろ方向へ走ってみるが、必死に走ってもどれほども行けず、どこまで行っても丸見えなのである。
えぇい、もう。覚悟を決めるしかない。見たけりゃ見ろ。
実際には誰も見ていなかったと思うけれど、わからない。バスの窓は汚れていて、中など見えなかった。私は砂漠を貫く道路からちょこっと下りた所で、一瞬ケツを見せるか前を見せるか悩んだうえ、敵に後ろを見せてなるものかと思い決め、はっしとバスを睨みつけながらいたした。
後でよくよく考えると、離れずにバスの後ろの真下に入ってしまえばよかったのだと思う。その時は考え付きもしなかったけれど。

バスはさらに走る。
工事中の道路を何度も降りて砂漠を突っ切り、スコールに降られて濁流と化した砂漠を進む。屋根の上の荷物を心配する余裕は誰にもなかったと思う。みんなただ振り落とされないように前の椅子の背もたれや窓枠にしがみつき、ぶっ倒れそうな疲労と闘っていた。荷物など、正直どうでもよかった。ただ着いてほしかった。
夜11時過ぎ、ようやくカシュガルに着いた。