1988中国シルクロードの旅(2)

2020年6月25日

そして成都に行った。
親切なタクシーの運転手が、飛行機のチケットを買うのを手伝ってくれたから。
ある程度遠くへ行かないと、このまま逃げ帰ってしまいそうな気がした。それに成都はチベットの都、ラサへの玄関口で、ともかくここへは行こうと決めていたのだった。
写真は成都の中心にそびえる毛沢東像。この頃、たとえば北京大学などでは毛沢東像の撤去が盛んに行われていたのだが、ここでは大健在だった(冒頭写真)。

成都バス駅の中

成都では峨眉山に登りに行ったのだが、そのときの写真はほとんどない。
そこから戻ってきて泊まったのが、成都といえばここでしょ、と言うべき交通飯店。その窓から見下ろした廃車置場。
というのは嘘で、現役のバスが置いてある。でも実際、自分は、廃車置場だと信じていた。あまりにも汚くてボロボロで・・・。よく考えてみれば、自分が峨眉山に行ったバスだって、走っている間に空中分解しそうなすさまじいバスだったのだが。

峨眉山へ行くバス(たしか報国寺行き)のチケットを買って、教えられたバスに乗り込もうとすると、女性の車掌が私のチケットを手に取り、やおら最前席の男性客のところに歩み寄ると、すごい剣幕で「どけ!」と言い始めた。客は客で言い返し、数分間の押し問答があったのだが、結局、車掌は男性客をそこからどかし、私をその席に座らせた。
実際のところ、私はどこでもよかったんだけど。
突然やってきた外人の姉ちゃんに対する、それが彼女の精一杯のやさしさだったんだろうなと思う。その最前席は、唯一の1人掛けシートだったから。
そのバスの食事休憩のときには、欠けた茶碗に注がれたぬるいビールを乗客に奢られて、サインをせがまれて困った。そうそう、この食事が中国に入って最初のメシ屋体験だった。金魚の絵のついた洗面器一杯のスープにも、このとき初めて遭遇した。

  山の途中にあった家

          延々と続く石段に心が折れまくる

     おそらくたどり着いた最高地点、どこだかわからない

その後アルバムを見返してみると、華厳頂という場所が最高地点だったらしいとわかった。

峨眉山の途中まで登ったのだが挫折。山道で水を売っていた老人と「いくら」というのを指数字でやりとりしながらパニックに陥っていた私を助けてくれた親子がいて、一緒に下山することになった。母親と息子。息子は私より3つ年上だった。

猿がいて写真を撮ってもらった

母親と一緒に 中腹のお寺のような場所だったと思う

山道の途中に、竹で囲った掘っ立て小屋があり、人を3人くらい茹でられそうな大釜で湯を沸かしていた。その湯をどんぶりでざぶりと掬ったものが1分。1元の100分の1だから、20銭くらいか。それを皆立ったまま飲み、強力たちは生のニンニクやタマネギをがりがりと齧っていた。痩せた彼らの目だけがギラギラと軒下の薄暗がりの中で光っていて、圧倒された。すごい国だと思った。

峨眉山で驚いたのはもう1つ。一応山であり、高尾山よりずっと高いし時間も長い、日本だったらみんな登山の恰好をして登ると思うのだが、中国ではまだ目的によって服装や靴を使い分けるということが一般的でなく、全員普通の恰好で来ていた。サンダルだったり、ちょっとヒールがありそうな靴だったり、背広ズボンだったり、スカートだったり。写真に写っている母親は、たしかスカートだったと思う。

彼らと一緒に下山し、麓の町で私は自分の宿に行き、預けておいた大きな荷物を受け取った。そして親子に誘われるまま、彼らが泊っている招待所に行った。人前では絶対に喋るなと何度も念を押された。お金はついに払う機会がなかった。そして翌朝、親子と一緒に成都に戻るバスに乗ったのだが、チケットは必要ないのだという。当時ほとんど中国語が話せなかった私はわけもわからないまま、ともかく彼らとバスに乗り込み、ここに座れと言われた席は、3人がけのベンチシート。しかもそこには既に、若い女の子が3人座っているのだ。その女の子たちは、思い返せばきのう下山のときに何度か見かけた顔だった。彼女たちは嫌な顔1つせずに詰めあって、私を座らせてくれた。それにしても無理無理である。ただでさえ狭い3人がけの椅子に、4人いるのだ。めちゃくちゃだ。日本のごく普通の観光バスが、左右2人ずつの座席だが、その2人のスペースに4人いるのだと考えてもらってかまわない。
やがて車掌が人数を数えはじめ、1人多いと文句を言い始めたが、私の周囲にいた人々が
「多いなら問題ないじゃん、早いとこ出発しようや、行こう行こう!」
と大合唱し、バスは走り出した。
「行こうぜ!」って感じで言いたいときは「ゾウラゾウラ!」と言うのだな、というのもそのとき学んだ。

そしてバスは一日がかりで成都に戻ったのだが、その時ようやくわかったのだ。
そのバスは、成都発着の、峨眉山3日観光ツアーバスだった。みんな成都でツアーに申し込んだ人たちだったのだ。たぶん招待所の金額もコミだったのだろう。招待所がタダだったわけも、夕食と朝食がタダだったわけも、バスがタダだったわけも、やっとわかった。
それにしても、と、今も思うのだ。
自分はお金を払って乗っているバスに、明らかにカネを払っていない人間が乗っている、それもただでさえ狭い3人がけの席に無理やりもう1人乗っている。そんな状況を、自分だったらこころよく許すだろうか? と。食べるものはすべて当然のように分け与え、休憩で止まれば何くれとなく世話を焼き、食事のときには丼に無理やりおかずを積み上げる、そんな風に接してあげられるだろうか?
その女の子たちと、私が知り合った親子とは、家族か親戚なのかなと思ったのだが、成都の駅に着くとたちまちみんな散り散りになっていったから、きっと知り合いでも何でもなかったのだろう。ただそのとき、同じ観光バスに乗り合わせただけの関係。そんな間柄でしかない知り合いが山で拾ってきた言葉もできない外人を、みんなが黙認してくれたのだ。

ここ数年、中国では反日の気運が高まり、日本人である私としては面白くない気分にもなる。それでも私が中国を嫌いにならないのは、こういう出会いが確かにあったからだ。
あの親子にも、女の子たちにも、長い月日が流れた。みんなどうしているだろう。もう2度と会えないのに、いや、だからこそなのだろうか、こんなに懐かしく、こんなに切ない。

この親子には、謝らなければならないことがある。
親子は蘭州から成都に遊びに来ていて、たまたま私と同じ列車で蘭州に戻ることになった。私は1等車で、親子は3等車。それでも車中で行き来して、私は日中ずっと彼らの車両に入り浸っていた。というか、彼らや周囲の中国人たちが、私を珍しがって離さなかったのだが。
蘭州に着いて、私は外人用のホテルに泊まった。親子は家に遊びに来てくれと言い、一緒に餃子を作る約束をした。
でも、その約束の日、私は蘭州を離れていた。
悪名高かった蘭州駅で、ようやく取れた切符がその日だったのだ、などというのは言い訳だ。私はそれがその約束の日だとわかっていたし、わかっていてその切符を買った。
怖かったのだ。何かこう、深い関係になることが。何かを期待されるのではないかと。たとえば日本に行きたいとか。そんないろんなことが、怖かった。
蘭州へ向かう列車で乗り合わせた日本人が、長く旅をしている人で、散々説教されたせいもある。たしかに私は初めての旅だったわけで、彼から見ればスキだらけに見えたのだろう。中国人にチヤホヤされてのん気に笑っている、どうしようもない小娘に見えたのだろうと思う。
説教されて散々脅かされて、それで反省しちまう自分も自分だ。悪いのはとにかく自分だった。
若かっただけではすまされない、実に苦い思い出だ。


気を取り直して、成都駅前の刀削麺屋の娘。大きな包丁でぴっぴっと小麦粉のかたまりを削り、沸騰した鍋の中に落としていく。これは汁麺として食べたのだろうか、それともこの後炒めたりしたのだろうか、まったく記憶にない。
成都の麺と言えば坦々麺だが、丼に盛られたそれを見た瞬間ダメだと思い、一口食べて火を吹いた。そしてそのまま、ダッシュして逃げた。もちろんお金は最初に払っているから食い逃げではないけど、あれは恥ずかしかった。それにしても辛かったな。

交通飯店の、1988年5月当時の4人部屋ドミトリー。
ワイホイで7元、人民元で10.5元。
ぶら下がってるのは自分の服とかタオルとかだ。知らない間に横のベッドのヤンキー娘が自分のパンツを干してたりもした。

まだまだ一般人民は自転車しか持っていない時代だった

成都のいちばん賑やかだった辺り。ご覧のとおり、車両はバスだけだ

そんなこんなの、1988年成都だった。

蘭州へ向かう

成都の駅で撮ったのだろうか、記憶にはない

車窓風景

枯れた河を渡った

この時の列車は成都駅で普通席の座席が買えず、一等寝台だった。例の親子は普通席に席を取っていた。息子が迎えに来てくれて彼らの席に遊びに行き、車両中のおもちゃになったりした。私が普通席にいる間は母親に寝台で寝てもらい、そんな風にして蘭州まで動いて行った。