1988中国シルクロードの旅(3)

2020年6月25日

蘭州

蘭州は当時、西安、ウルムチと並ぶ危険な街と言われていた。
私にとっての蘭州は、前の記事に書いた顛末によって苦い街であるが、とりたてて危険な街だとは思わなかった。ただ、嫌な街であったことは確かだ。
列車が蘭州駅に着いたのは、真夜中だったと思う。同室だった日本人と自転車力車をシェアして蘭州賓館へ。ドミ8元、10人部屋。深夜のためもう明かりは消えていて、空いているベッドを探すのに一苦労。ようやく見つけて着の身着のまま眠り込み、翌朝起きてみると、自分以外ぜんぶむくつけき男だった。まっとうな日本婦女子なら卒倒ものだろう。この旅行ではドミにばかり泊まったが、さすがにこれだけの大部屋で、自分以外が全部男だったというのはここだけだ。

蘭州の全景。
手前を流れる茶色い水は、黄河である。ホワンホー、個人的に憧れの川だったのだが、かなりがっかりした(笑)。

怒りの蘭州火車駅。
当時の中国は、国営全盛時代であり、どこで何をするのにも「服務員様」のご機嫌が悪ければアウト! の世界だった。そしてほとんどの確率で、服務員様のご機嫌は悪いのだった。商店では目の前の棚にあるビスケットが「没有」だし、ホテルではベッドがあっても「没有」だし、駅ではチケットがあっても「没有」なのだった。もちろん、こちらがもっと言葉ができれば違うのかもしれないのだが。
で、ここ蘭州の列車駅は、噂にたがわずとんでもねぇ駅であった。
とにかく、一等寝台以外絶対に売らない。
「ええと、明日のトルファン行き2等寝台ありますか」
「没有!」
「え、えと、それじゃですね、明後日は・・・」
「没有!」
「え、えと、えと・・・・・・」
ガシャーン!<br>
2回目の質問をしている時点でかなり「うぜぇ野郎だぜ」って顔をしていた服務員は、3回目の質問は許さずに小さな窓に音を立ててシャッターを閉め、茶を飲みに席を立つのである。
一事が万事、こんな感じ。どこの駅でも似たようなもんだったが、それにしても蘭州はひどかった。とにかく、その当時の蘭州で、2等寝台を買えたという話を聞いたことがない。
おかげでこの駅の外人用窓口の木の枠(窓口は手が入るだけの小さな口が開いていて、そこに顔をナナメにして中に叫ぶ方式)には、放送禁止用語がたくさん書き連ねられていた。

蘭州では、耳たぶ麺の屋台がよくあって、皿1杯が1元だった。
正確には「猫耳麺」と呼ぶのかな? 子猫の耳みたいな形にした小麦粉を茹でて、それから野菜などと一緒にガーッと炒めて供されるそれを、私はけっこう好きだった。
ある日、1人でこの麺を屋台で食べていたときのこと。屋台と言ってもテーブルが何台か置かれ、飯時だったのだろう、店はにぎわっていた。私の麺ができて、食べ始めて少しすると、テーブルの向こうに子どもが2人立った。6歳くらいの男の子と、3歳くらいの女の子。年齢はもちろん確かではない。もっと大きかった可能性もある。
男の子は上半身裸だった。女の子は汚れたワンピースのようなものを着ていたと思う。
なんだろう、とただ見ていると、男の子がやおら手に持っていた針金を私にかざしてみせた。そして、そのかなり太い針金を、自分の胸にギリギリと巻きつけ始めた。呆気にとられて見ている私の前で、針金は3回くらい巻かれ、彼はその端っこをものすごい力で引っ張って締め始めた。彼の胸が針金によってくびれ、くびれたところは真っ白に、そうでないところは真っ赤になった。私はただ呆然と、それを見ていた。周囲の男たちは、笑いながらけしかけていたような気がする。多分、いつもいる兄弟だったのだろう。
少年はいったん胸に巻いた針金をほどくと、今度は首に巻きつけて、またギリギリと締め上げた。さすがに制止しようと思わず腰を浮かせると、妹がすっと手を差し出してきた。ポケットに入れていた1元を渡し、ついでに麺の皿も押しやると、まだ熱いそれをとんでもない勢いで兄貴が半分胃袋に流し込み、続いて妹が同じようにした。
屋台のおやじが気がついて怒声を上げたときには、もう兄弟は逃げだしていた。
それから私は屋台のおやじに怒られ、周りの男たちに嘲笑を投げかけられながら、「何なんだ、何なんだ」と腹を立てながら宿に帰った。いったい何に腹を立てていたのだろう。自分にか。周囲の男たちにか。

こういう乞食に会ったのは、私の記憶に間違いがなければ、後にも先にもここだけだ。
蘭州はほんとうに、嫌な街だった。

この頃はまだペットボトルというものはこの世になく、瓶詰の汽水というものを売っていた。ただしその瓶の中の水は、売り子がそこらで詰め替えたり蒸発したのを増やしたりしているので、危険な代物であった。

さらに西へ

さらに西へ向かう列車に乗った。
当時はほとんどの列車が機関車で石炭を焚いて走っており、窓を開けているとバラバラと煤が降り注いでくる。この頃の一等寝台は、まだ窓が開いたのだ。
当時の日記を見返すと、私はこの車中で女性の車掌さんに英語の雑誌を貸してもらい、同室の中国人のおじさんに揚げパンをもらって腹を下したらしい。このおじさんは、しょっちゅう魔法瓶のお湯を取り替えに行ってくれたり、いろんな食べ物をくれたり、地図を見ていると場所を教えてくれたり、とんでもなく親切な人だったと書いてある。
途中から酒泉の大学教授親子が乗ってきた。この時期の中国では、いついかなる場合でも、人を見たらタバコを勧めるのが礼儀であった。同乗した彼らもまた、執拗に私に勧めるのだが、「本当に吸わないのだ」ということを理解した後は、決してコンパートメント内では喫煙しなかった。当時もそういう人はいた、のである。そう、いくらでも。
この人たちが「帰りには酒泉に寄るでしょう?」と聞くので、「ええ、多分」と答えると、「葡萄美酒夜光杯」に始まる漢詩をとうとうと詠い、尚且つ私の手帳に書いてくれた。その字のまた美しいこと! 今も大事に取ってある。

因みにこの漢詩は、王翰という人のもので、全文は以下に。

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人帰

恥ずかしながら、一行目以外は読めない文字もある。帰路、私は敦煌から酒泉に寄り、夜光杯をお土産に買って帰った。多分今も、両親のところにあると思う。
(今は両親のところから私の手元に戻ってきた)

嘉峪関の遺跡前を列車が通過する。たぶん同乗していた人たちに教えられて写真を撮ったのだろうと思う。


この列車には、42時間くらい乗ったようだ。下車したのは大河沿という駅。ここからバスで1時間ほどかけて、トルファンに行った。