ナムチェ・バザール 10/9
エベレスト街道の通常で2日目に到着するナムチェ・バザールは、シェルパ族の里として有名だ。エベレストエリアに入るほぼすべての登山隊はここを通過するため、古くから彼らをサポートする仕事が成立していたと思われる。多くの山小屋があり、その殆どは登山隊のサポートをした家長が財を成して始めたものだ。どの小屋に泊まっても、家の誰かが登山の仕事をした時の写真が飾ってある。水や米などの保管に使われるのは、青い硬質プラスチックの大きな樽。これも登山隊が物資を運ぶために使うもので、使用後はシェルパたちに譲られるのだろう。
ここ止まり、あるいはナムチェから小一時間のシャンボチェ止まりのツアートレックも多い。
シャンボチェには日本人経営のホテル’エベレストビュー’があり、ここのテラスでお茶を飲みながらエベレストを眺めるのが昔も今も大流行りだ。シャンボチェ直下にはヘリポートがあるので、カトマンズからそのためだけにヘリで来て、泊まらず帰る人もいるらしい。
例えば高齢であったり、歩くのに少し支障があって長距離は無理という人でも、このシステムを使えば自分の目でエベレストを見ることができる。ホテルには酸素もあるはずだ。もちろん気象条件はどうにもならないけれど。
朝起きて、出発にはまだ早いのでゴンパに行ってみた。
露店ではチベット風のアクセサリーやヤクの鈴なんかを売っていた。手編みの帽子、セーターも少しあったがカトマンズほどではなかった。
この頃のナムチェはまだ、山小屋(バッティ、ゲストハウス)と土産物屋しかない場所だった。トレッカーは小屋に泊まり、小屋で食事をし、土産物屋を冷かしてぶらぶら歩き、ナムチェ滞在を楽しんだ。
ナムチェにレストランやカフェが出来始めたのがいつ頃か、正確なところはわからないが、96年に再訪した時に既に数軒、そういう場所があったように思う。06年に4度目のナムチェを訪れた時には、レストランとカフェがずいぶん出来ており、泊まった場所で食事をするという習慣は(少なくともナムチェでは)かなり失われているように思われた。かつては宿泊者以外に供することを考えていなかった宿の厨房が、宿泊者以外、特にお昼時の客を求めてどんどん門戸を開放した、のかもしれない。もちろん宿泊部門を伴わない店もたくさんあったが。
90年当時の小屋はまだ個室であることは稀だった。経営者は宿泊料金ではなく食事代金で儲けようと考えていた。だから宿泊は5Rsや10Rs、そのかわりに「ここで食べてくれよ」と言われ、トレッカーも当たり前にその通りにした。他で食べようにもそんな店はなかったということもあるし、そうやってお互いに成り立っていたのだ。
ナムチェからタンボチェへ 10/9
前年の春にナムチェに行った時は、高度障害を抑えるために2泊した。今回は誰も頭痛など出ていないし、元気なので1泊で先へ進むことにした。私は元気だったが相変わらず眠れず、その点だけちょっと心配だった。
ナムチェの集落はすり鉢のように見える。南側を除いて全部が急斜面で、どちらへ行くにもそのすり鉢の内側を登っていかなければならない。最初の急登だ。これを登りきると、行く手遥かにエベレストが見える。
私以外は初めての景色だから写真をたくさん撮ったはずなのに、自分の手元にあるものを見てもどれがその場所からのものかわからない。いや、そもそもオット氏はカメラを持っていなかったな。
それともしかすると、出発が遅くなったので山は雲の中だったのかもしれない。
因みに上の写真でエベレストはどれかというと、真ん中からわずかに左にある、少し色が明るい岩肌の小さな出っ張りだ。
ナムチェからの急登を終えると、道は谷に面した右岸の崖の中腹を進む比較的平坦なものに変わる。小さなアップダウンはあれど、大きく登ったり下ったりがない。行く手にはエベレストやマカル―、右手にはタムセルクやアマダブラムがどっかんどっかんと聳え、そりゃぁもう、天上を行く道のような気分がする素敵な場所だ。
ツアートレックの荷運びをするヤクの列が続いている。ヤクの前後にはポーターの姿も見える。みんな信じられないような量、重さの荷物を担いでいる。以前知人が「100kgくらい背負っている」と言っていたが、さすがにそれはないんじゃないかと思う。でも30、50は当たり前のように彼らは持てる。持てることと、持って運ぶことをよしとすることは、当然違う。
ずいぶん前の話になるが、「Tin Air」という映画があった。エベレストのツアー登山大量遭難事故を題材にした映画で、その中で映像制作を仕事にしている女がシェルパに大量の機材を持たせるシーンがあった。他のシェルパは「やめろ、やめさせてくれ」と言うが、女も当のシェルパも聞き入れない。大量に一人が持てば普通のポーターの1.5倍とかもらえる、という話だったのだろうと思う。それにしても本当に嫌なシーンだった。映画では何人ものツアー参加者が亡くなるのだが、その女は助かった。こいつが死ねばよかったのにと心底思った。
因みにその映画を見たのは2006年のエベレスト街道ルクラ。またしても乗れない飛行機を千人を越えるトレッカーがじりじりと待っていた状況下で、宿の主人が気分転換にと開いてくれた映画観賞会でだった。観ていた全員がさらに落ち込み、「次はコメディーにしてくれ」と主人に懇願したっけ。
この集落は街道から少し離れているので、エベレスト街道の賑わいには参加できない。ナムチェのすぐ先だからここに泊まる人もいない。というわけで集落の人たちが街道に露店を開き、せめて現金収入を得たいと頑張っている。殆どがチベット風アクセサリー。私も帰りにブレスレットを記念に買った。
キャンズマを過ぎると道はだんだんと下りがちになり、そして一気に谷底めがけて下って行くことになる。谷底にあるのはプンキタン。バッティが1つか2つあったと思う。ここでララヌードルとお茶。ゆっくり休憩する。フランス人グループと一緒になった。タンボチェまでのツアーらしい。ドライフルーツをたくさん分けてくれた。
ここからはタンボチェに向かって標高差600の登りになる。木が茂る樹林帯をくねくねと登っていく。
日本の山と言っても違和感のない写真だ。
一度も平坦にならない山道をひたすらじりじりと登っていく。小さいとはいえ一応フル装備を背負っているので、足はなかなか上がらない。この時の私で多分8kgくらい。友人はもっと重かったはずだから、そうそう上がれない。でもここはひたすらの一本道、てっぺんに飛び出したらそこがタンボチェなので、それぞれが自分のペースでじりじりと標高を上げて行った。
やっぱりきつい所ではまったく写真なんか撮っていないので、写真なし(^^;
タンボチェ到着
出発が遅かったので、タンボチェ到着は午後遅い時間になっていたと思う。緑色の大きなテントはツアートレックの食事テント。ツアートレックは驚くなかれ、テーブルと椅子も運んでいる。荷物をさほど持たないガイドが、卵や生きた鶏を手に提げて歩いているのをよく見た。
ツアートレックはガイドが数人(サーダーと呼ばれるボスと若手の補助ガイド)、多数のポーター、そしてキッチンスタッフが数人、という大陣容だ。特にキッチンスタッフはお客さんよりも後に出発し(後片付けがあるため)、途中で追い抜いて先着し、到着するお客さんに暖かいお茶やホットレモンなどをすぐに出せるようにする。誰もが健脚で力持ち。大変な仕事だ。
先乗りした私が小屋のベッドを確保し、荷物をばらけて置いてから友人を迎えに行った。遅くとも着実に歩いて来る友人。
この時だったと思う。ルクラを出発してすぐ、飛行場の上の崖路を歩いていた時のことだ。向こうから小さな男の子ともっと小さな女の子が歩いてきた。男の子は7~8歳に見えた。もしかすると10歳を超えていたかな、小さいので幼く見える。その子は私たちに気付いて声をかけてきた。
「I’m strong man! 30kg ok! 100Rs ok?」
その時は何とも微笑ましいと思っただけで、自分たちで荷物を持つつもりだったから断った。兄妹は残念そうに振り返りながら去って行った。
後で思えばこの子どもを連れて行けばよかったのだと思う。1人雇えば彼が10kgくらいは持ってくれるだろう。そうすれば3人の負担、特に友人の負担が劇的に減ったんだよなぁと思うのだ。
タンボチェゴンパは新築中。広場の隅で材木を削っている。
今夜の宿はお坊さんが経営するロッジだ。
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