長江下り~1989.10-12中国の10

昆明を経て重慶へ

大理に行く前の予定では、大理から麗江、金江を経由して成都に抜け、そこから重慶に列車で入ろうと考えていた。しかし思ったより大理滞在が長くなり(沈没に近いものがあった)、日程的にいくぶん厳しくなったので、昆明経由で重慶に行くことにした。


左下、Aが二つ重なっている辺りが大理。最初は北上して成都を経由し重慶入りを考えた。実際には大理から右へ行ったB地点・昆明に戻り、飛行機で重慶に入った。

大理から昆明へはミニバスのチケットが買えず、下関まで行って大型バスに乗り換えて、の道行きになった。大型バスは時間がかかるし夜行だった。途中で一度、飯休憩がある。乗客にはミーシェン1杯が無料でついてくる。ぶちぶちに短く切れた殆ど具のないミーシェンを、薄暗がりの中皆で啜る。西洋人の女性が1人いたので教えてあげようとしたが、自分は食べないのだと言った。
ストリートフードを決して食べない、と決めている旅行者はこの時期たくさんいた。今もそうだと思う。でも私はストリート以外のどこで食べるんだよと、むしろ思っていた。

余談になるが前年の中国行きの始点であり終点であった上海では肝炎が流行していた。あの中国人が! アルコール綿のようなものを持参し食堂の箸を消毒しているのを何度か目撃した。私はそのようなものを持ち合わせていない。どうするかと言うと、出てきた麺のどんぶりに、箸を突っ込むことで消毒とした。以後中国ではそれが慣例になり、常にどんぶりに箸を突っ込んで数秒待機する私を、笑う人もいたが知ったこっちゃない。

この時乗ったバスは山の中で故障した。折しもすさまじい雷雨が来ており、乗客も降りるに降りられず、不安な時間を過ごした。結局5時間ほど遅れて昆明に着いたと記憶する。
昆明では重慶へ行く列車チケットを探し回ったがやはり買えず、空路になる。

この時、Hさんも一緒だった。彼は最初フィリピンへ行くと言っていたのに、私の長江下りの話を聞いて俄然その気になり、「俺がそっち行くので姉さんはバンコクに飛んだらどうですか」と言ってのけた。冗談じゃないですよと私も張り合い、結局二人で長江を下ることになった。
で、飛行機のチケットを買う段になると、「あ、俺が出しますよ」と、Hさんがお金を払ってくれた。「そんなわけには」「いやいいじゃないですか」「よくないでしょ」「いいんだって」とかの押し問答の末、私はチケット代を奢られた。
もしかしてすっごいお金持ちなのかしら……、とふと考えたことはまぁ事実である。
Hさんは後に私の夫となったが、残念なことにぜんぜんお金持ちではなかったという笑い話(^^;

重慶

霧で飛行機が遅れ、重慶に着いたのは夕方だった。バスに乗って市内へ向かう。ところが道は山道になった。こんなことは初めてだ。山間部をくぐりぬけて、バスはやっと重慶の市内に入った。遥か下の方に、長江が見えていた。
擦れ違う車のナンバーが「四川」になっているのに気がついた。今回は前回行ったところと全く重なることのない旅になっていたのだが、これが初再訪の省ということになった。四川は昨年成都や峨眉山を訪れているのである。霧の重慶、ここが長江下りの出発点だ。
重慶に着いて最初にしたのは、民航オフィス前の路上に立っているおばさんから市内地図を買うことだった。当時はどこにでも地図売りおばさんがいて、まずそれを買わないことには何も始まらない感じだった。
坂の多い、暗い雰囲気の街だった。天気が悪いせいかもしれない。なんせ四川、かつての蜀は曇天が多く、故に「蜀犬日に吠ゆ」という言葉があるほどだ。蜀の犬は太陽を見るとびっくりして吠える、という意味。

外国人が泊まれる宿は1つか2つしかなく、行ってみると野戦病院のようなだだっ広い男女混合のドミだった。15FECと値段も高い。都市部に入ると住環境はがくっと悪くなる。
因みにこの時期の重慶、闇両替は1.5倍だった。

霧の街重慶は、また坂の街でもあった。たくさんの担ぎ屋がいる。縄だけを持って仕事を求める男たちがたくさん溢れている。
港周辺は特にそうだった。船は接岸しないので、そこから長い板の橋を渡って上陸してくる。そこに担ぎ屋がいるのである。彼らはとにかく客を取り、その荷物を相当な高さの街まで運び上げるのだ。荷物を肩に担ぐために、縄が要る。苦力という言い方を今でもしているのだろうか。
秩序はないが活気はある、というのがこの街の印象だ。中国はどこでもそうなのではないか、と言われるかもしれない。たしかに秩序がないというのはどこもそうなのだが、全ての街に活気があるとは言えない。この国も、大変な国なのだ。

長江を眺める。担ぎ屋は川原から私がいるここまで荷物を担ぎ上げる

街中で市場をみつけて入っていく。火鍋屋(極辛い鍋料理)、ソーセージ売り、みかん売り、服の屋台・・・。魚を売る露店が延々と続き、そこで働く人たちが利用する飯屋がある。天秤棒を担いだ人、人、人。仕事を求める担ぎ屋の群れ。曲がりくねった細い坂の路地。密集する店、店、店。人が食べているぶっかけ飯。飛び交う怒号と笑い声。そのあふれる活気と、重く暗い貧しさ。タドンを運ぶ老婆の天秤棒が坂道にしなう。横を自転車が掠めていく。

夜、恐ろしく汚い路地の、恐ろしく汚い屋台の密集地帯に入り、その中では少し小奇麗な店に入る。毛皮を着た女性を含む3人連れの客がいて、料理を教えてくれる。それが何だかとてもアンバランスで、不思議な感じだ。毛皮なんてまず見ない。夜の商売の人なのだろうが。

船下りの切符を買う

船の切符を買いに行く。武漢まで3等料金は 121.8元だったが、窓口で外国人とわかると別の窓口に行けと言われ、そちらで聞くと何と 295元と言われた。倍以上だ。しかも許可証がないのでお金を払ったとしても買えない雰囲気だった。
因みに上海までの通しのチケットはなかった。武漢まで行き、そこで上海行のチケットを新たに購入するのだそうだった。

切符売り場で思案する私たちに、ダフ屋が寄ってきた。2枚で 350元だと言う。お? 安いじゃん?

そこから交渉が始まった。ダフ屋は全部で4人連れ、お前たちじゃ永遠に買えないんだからおとなしく言い値で買えと迫って来る。こちらは2人、値段を下げさせようと粘る、粘る。
値段が 290まで下がったところで、Hさんは打ち切ろうとして私に同意を求めた。が、私はキリのいい 280まで下がるのではないかと単純に思い、「 280、280 」と囁いた。彼は少し驚いたが、さらに交渉を続け、結局 280で切符は私たちのものになった。
たしか販売時間(その時間を過ぎると切符の販売、もしかすると乗客は購入→登記するのかも、が終了してしまい、切符はゴミになる)も迫っていたと思う。彼らにしてみればゴミにするよりは……、えぇい畜生持ってけ泥棒、だったのかもしれない。

243.6元で買ったものを280元で売る。差額36.4元。4人で割ったとして9.1元。うーん、たいした儲けではないが、麺の大椀が9杯食べられると思えば、そう悪くもないような? どうだろう?
因みに当時、大きな包子が1元で3個買えた。場所によっては4個。9元は決して小さな額ではないと思う。

いよいよ船に乗る

武漢に向かう朝のことだ。ダフ屋に言われていたとおり、8埠頭に行って折から停泊していた船に乗り込んだ。しかし服務員に切符を見せると「これは違う」と言う。なおも聞いてみると、「不至武漢!」という言葉が返ってきた。「武漢には行かない!」私と連れは真っ青になった。
あわてて船から板に下り、そこにいた係員に切符を見せると隣の5番埠頭だとのこと。隣と言っても、そこからまず長い長い板の橋を渡って川原まで行き、そこから歩いて下流へ向かい、またまた板の橋を渡っていかなければならないのだ。うむむ・・・、私たちは走り出した。

川原の道を歩き、長い板を渡って船に乗る。この絶望的な距離!

船はこんな感じだ。板の橋は小舟によって中継される

この長距離走を終えて5埠頭に辿り着いたのは私の方が先だった。もっとも、途中でHさんが私の荷物を持ち、先に行って出航を待たせておけと言ったのだ。船の乗り口まで行くと、椅子に座った係員がちょいちょいと手招きした。私は吐く息も荒く切符を出した。本当は“外国人狩り”を恐れてびくびくしている所なのだが、そんな余裕もなく出したので相手もわけわからぬままチョンと鋏を入れた。Hさんも無事乗船できた。
これがもう一回「この船じゃない」と言われていたらと思うとぞっとする。ダフ屋にしてやられたのか、それとも当日埠頭が変わったのか、さてどっちだろうか。

3等船室は10人部屋。2段ベッドが壁に沿って設置されている。入口の所に洗面台がある。
みな漢族の男性だが、何かと気を使ってくれる。どうも出張にかこつけた観光旅行といった感じで、どこも同じだなあと思う。

大混乱の夕食を終えて戻ってくると、デッキに出ていたおじさんが「おいで、おいで、早く、早く」と言う。出ていくと、街の夜景。万県という名の町だそうだ。明るさも乏しく、いかにもまばらな中国の夜景そのものなのだが、船から見るそれは何とも言えぬ旅情をかきたてる。 100万ドルの夜景、なんぼのもんじゃ。
ここで一旦停泊して、皆下船する。ここは観光名所らしく、街は深夜だというのに船客をあてこんだ露店商で賑わう。柑桔類の特産地なのだろうか。いろいろな種類のそれが山と積まれている。船の乗客は驚くほどの量の蜜柑、それにこれも名産なのか籠を買い込んでいる。

未明に出航した船は、翌朝峡谷にさしかかった。これが噂の三峡である。ベッドでぐずぐずする私を、またまた漢族のおじさんが呼んだ。「早く、早く!」飛び出していくと、ちょうど大きな峡谷の間を進んでいるところだった。深い霧でそそり立つ絶壁も中途までしか見えない。寒風吹きすさぶ中、デッキに立ち続ける。狭い川を、小さな船が漂っているのが見える。夫婦なのか、一組の男女が乗っている。男性が櫓を操っているが、この船の波をくらって苦労しているのがよくわかる。何故かシャッターを押さない(押せない)光景だったが、心に残る一枚だ。

霧の中、峡谷をゆっくりと下る

手漕ぎの舟もまだまだ多かった


甲板に夜具を拡げて眠っている
一眼レフ下げた私が波を見ている

3等船室が一番下だと思っていたが、乗ってみるとさらに下がある。その人たちは部屋もベッドもない。列車で言うところの「無座」だ。甲板や船内の廊下やちょっと広がった場所に、持参の夜具を広げている。女性たちの一団が、当時の中国でよく見かけた靴の中敷きをせっせと縫っていた。フェルトのような板状のものを、しっかりさせるため刺し子するのだ。器用な人は何色もの糸を使ってきれいな模様にしたりしている。人民靴という名の緑色のまったくしっかりしていないズック靴で、中敷きがあればずいぶん快適になるのだろうと思う。

ほんとに一眼レフを持ってるし! ペンタの全手動だし!

食事は食堂で取ることができる。朝はお粥、昼は弁当、夜は弁当かあるいは普通の食堂のように注文して食べることもできる。朝ごはんだけは無料だったような気がする。その他は自分でお金を払って食べる。弁当のことは経済包盒といい、1元~2元程度で買える。ただの御飯の上に野菜を炒めたものが乗っているだけの、実に単純なものだ。いわゆるぶっかけ飯。
私のように非グルメの人間にとっては、これでも充分OKだ。列車の弁当は食べたことがないが、船のそれは温かいし食べておいしい。大体そんなに量を食べるわけでなし、名菜を食べたいと思うわけでなし、ただほどほどで良いのだ。

かの有名な、何だっけ?笑 白帝城かな?

全く違うかもすいません!

同じ部屋のおじさんたちが、日本人でわけもわからずに乗っている私たちをもてなそうと、あらゆる場面で声をかけてくれる。

「ほらあれが何とかかんとか!」
「で、次は何とかかんとか!」
「待て待てまだ帰っちゃだめだ、この先にすぐに見どころが!」
てな具合。寝ていても親切にもたたき起こしてくれる。

この頃の中国人にはあった懐の深さ。誰とでも会話をし、打ち解け、傍から見ると家族のように談笑する快活さ。当たり前のように食べ物や煙草を分け与え、怒るのでも笑うのでも正直で、体裁なんか気にしない。気に入れば世話を焼き、気に入らなければ何を訊かれても頼まれても無視無視無視! そんな中国人気質が、大嫌いで同じくらい好きだった。

(この項は1989年当時の記録に大幅に加筆訂正しています)

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