古都と呼ばれるバゴーへバス移動
ひたすら走る、走る、走る
古都バゴーヘバンバスが走る
どうもこの日の写真が消えたらしく、1枚しかなかった。
撮らなかったのかも?
だんだんぼけてきたかもしれない。
ホテルで朝食をとってから出発。バス停までは歩いて行く。
タウングーの町、幹線道路は車どおりが多く、しかも舗装が完全ではない。タウングーに限ったことではないが、端まで舗装されていない。
タウングーの場合、道路の端は砂漠のような状態だった。歩きにくいし、埃もひどい。
ホテルの部屋から外を見ていて、お濠沿いに歩道があるのに気付いた。
この道は途中の橋も越えてずっと続いている。こちらの道は車が殆ど通らないので安全、砂からも逃げられる。
タウングーで幹線道路を徒歩で移動する際は、裏道をどうぞ。
バス停と言うか、チケット売り場というか、バス会社というか。
ここからバゴー行きが出る。
バンは意外にも時間3分遅れで発車したが、案の定、その先にある本格バス停(?)で30分待ち、ほかのバス停でも客寄せ、さらに引き返して路地に入り、住宅街で何やら金属で出来た大きなものとベッドマットを屋根に積む。
バゴーを出たのはたぶん発車から1時間半は過ぎた頃だったと思う。
ミャンマー時間・・・。
ヒュンダイのバンはそれでも快調に飛ばし、途中でお客の乗り降りはあったものの、なんと休憩なし(給油休憩はあった)でバゴーに着いた。
午後1時半過ぎ、ほぼ5時間強の道のりだった。
運転手に頼んでバス駅に行ってもらう。
バス駅と言っても町に1つなのか、ただの運行会社なのか、わからないのが頭痛の種だが、この町には駅がある模様。
そこで下ろしてもらった。
宿はネットで探していた。タイのソンテウのような乗合が走っていたので停めて行ってもらう。
部屋を見て、決める。
少々町の中心からは遠いが、たぶん1泊で出ると思うので大きな問題はないだろう。
バゴー到着
バゴー。上の地図ではペグーという表記になっている。地名とか国名とか、なかなか発音が難しい。
宿に荷物を置いて、早速昼ごはんに出る。幹線道路に開放的なレストランがあり、入る。子供がたくさん働いていて、まとわりついてちょっと気になるが、味も値段もまあ普通。
ところで、ミャンマーで不思議なことの一つに、食べ物屋に入ってメニューを持ってきてもらっても、そこには値段が入っていない、ということがある。
値段が入っているメニューにはまずお目にかからない。
一体どういうことなのか。
誰にメリットがあるのか。
さっぱりわからない。
面倒がってそのまま注文して、後でいくら請求されても文句は言えないわけである。
どういうことなんだろうほんとに。
マンダレーの屋台で、麺2杯とその上に乗せる揚げ物のようなものを頼んで、5000と言われてたまげたことがあった。大体麺1杯は500~1200くらいだと思う。もちろん多少の上振れはあるが、さすがに屋台で大したものも入っていないのに2500になるなんてことはまず考えられない。その前日に同じ通りの屋台で食べたフライドライスが500だったのである。ぼられたものだ。
以来、必ず訊いている。嫌な思いはしたくないから。
それにしても、ミャンマーの人にとっては問題がないのだろうか?
日本人的感覚では、メニューに値段がないなんて、ぼったくり飲み屋くらいしか思いつかないのだが。
バゴーでは食事に出たのみで、どこにも行かなかった。
何でも「ビルマの竪琴」の舞台? になったのが、ここの巨大寝仏だったとか。
実際に、敗戦後ビルマ社会に紛れ込んで隠れて暮らした日本兵が相当数あったという。それが出来た人は幸運であったのだろう。ビルマで終戦を迎え、収容所に入れられた人々には悲惨な日々が待っており、たくさんの人が落命されている。抑留問題はシベリアだけではないのだ。
もちろん、ビルマ社会に何とか身を隠した人はその後帰国するのに苦労があったと思う。帰国しなかった、できなかった、人もいると聞く。どちらがよかった、などと簡単に言うことはできないし、その時点でどちらを選ぶか、これを選んだらこうなる、とわかっていたわけでもないだろう。ひとりひとりに戦争があり、敗戦があり、生き延びるための闘いがあったのだと思う。
ミャンマーはどこに行っても戦争の痕跡が残っている。
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