1991年夏、初めてのチベット

この写真は、当時のポタラ宮殿を下から見上げたところ。広場には普通の建物が見えるが、ここにはチベット人が居住していた。昔から住んでいた人たちなのだろう。この数年後、この人たちはポタラ宮殿の裏側に強制移住させられた。そしてこの村は取り壊され、今ではポタラ宮殿下の人民広場の一部か、あるいは道路の一部になってしまった。

初めてのラサ

1991年夏、チベットを目的地として旅を始めてから4年目にして、ようやくラサの地を踏んだ。

実はこの時のラサは、行こうとして行ったわけではない。というか。もちろんラサには行こうとしていた。陸路でだ。空路では成都から飛べないことは嫌というほど知っていた。だがうまくいきそうに思えた陸路行が失敗し、周辺をうろうろしているうちに、なぜかラサに着いていた。そのあたりの話を少し書いてみようと思う。

陸路行に失敗した私は、しばらく四川省のあちこちを旅していた。そして成都に戻った。既に7月も終わりかけていた。さらにここで、陸路でラサまでトラックに乗せてくれるというチベタンに引っ掛かりだまされた。半分わかっていてだまされたのであるが、さてさてどうするか。
最後の足掻きで市や省の役所に出向いてラサの許可証が取れないかやってみたが、もちろん無理だった。彼らが言うにはチベットは開放されているので許可証は存在しないのだそうだ。ではツアーの人々が取っているあれは何かと訊けば、チベット政府が出している招聘状、とのことだった。まぁどこまで真実かはわからないが、私にできるのはそこまでだった。

何となくだがバンコクに飛べるなら飛ぼうと思った。このまま日本に帰るよりはタイにでも寄ろうかと思ったのだ。
成都のたしか町の中にあった民航の事務所に出かけ、壁にずらりと貼りだされている行先を確認してみた。当時の中国では漢字表記しかないのが当たり前で、バンコクは「慢谷」のはずだ。他にもいろいろと知らない町の名前があり、面白くて端から見ていたところ「加徳満都」の文字を見つけた。

カトマンズ!
ネパールのカトマンズに成都から飛行機が飛んでいるのか!
俄然カトマンズに行きたくなった。雨季の真っただ中だが、この時期に行ったことはなく、面白そうだと思ったし、何よりチベットに行くつもりで旅に出たのだからせめてネパールに寄って帰れれば、それはそれで気が済むというものだった。

「カトマンズへの便なんですが」
と受付の小姐に声をかけてみた。
「週に1便、土曜日だけで次のは一杯、その次の便なら」
「あぁ、えぇと、買えるんですか?」
ラサ行の航空券を買おうとして何度もダメだと言われた場所である。カトマンズ行も買えないのではないかと思った。直行ではない、ラサ経由のはずだからである。
小姐は怪訝そうな顔をしていたがやがてわかった、という風にうなづき、
「ラサではあなたは飛行機を降りません。その飛行機がそのままカトマンズに飛ぶので」
なるほどそうなんですか!
私は小躍りしてラサ経由カトマンズ行きの航空券を入手した。いとも簡単にそれは買えた。
1595FECだったそうである。当時のレートで4万2~3千円。高いような安いような。まだLCCなんていうものがなかった時代、航空券はこのくらいは当たり前にするものだったと思う。

しかし出発当日、成都では出国審査がなかった。ということは? 私はわけがわからないまま、もしかするとラサで一旦降りて出国審査をするのだろうか? と思いつつも、誰にもそんな細かい話は訊けないまま機上の人となった。7時50分発の便は遅れて10時20分発になった。
飛行機は四川省西部あたりから高い山々の上を飛んでゆく。私が陸路で行くはずだったルートの上である。行きたかったなぁと思っている間に眼下は雲で何も見えなくなり、やがて飛行機はラサに着いた。12時10分だった。

全員降機だと告げられた。手荷物を持って滑走路に降りる。そこには我々の荷物が放り出されてあり、人々に交じって私も自分のザックを探し、担いだ。ビルらしきものが見えず、とりあえず人々と一緒にぞろぞろと歩いていく。やがて広場のような場所に出た。民航のバスが何台もいて、公安が警備している。中国人乗客たちが続々とバスに乗っていく。このままこのバスに乗ったらどうだんべかと思っていると、職員に見つかってしまい小さなバスに乗せられて空港ビルに連れていかれてしまった。
しかしそこは陥落直前のサイゴンのアメリカ大使館か? という混乱ぶりだった。大勢の欧米人旅行客とそのガイドらしき中国人が、カウンターを挟んで民航の服務員と闘っていた。ザックを片方の肩にかけた私は、唖然としながらしばらく様子を見守った。
彼らが勝ち取ろうとしていたのは、カトマンズ行きの座席のようだった。手にドル札を掲げた白人たちもいた。ガイドのような中国人と服務員はまさに乱闘の真っ最中だった。

考える必要はなかった。
私はこの混乱の中で、自分の存在を消してしまえばそれでよかった。
というよりも、誰も私の存在など目にも留めていなかった。
成都から来てこのままカトマンズへ向かう外国人がいる、などということを、誰も気にはしていなかったと思う。
どうぞ行ってください、私の席なんざ差し上げます、どうぞ、どうぞ。
しばらく経ってから、カトマンズ行きの飛行機が飛び去っていった。それから私はゆっくりカウンターに行き、「私って、これからどうなんの?」と聞いたのだった。服務員はこう言った。
「申し訳ありませんが、ラサへ、行ってください」
「え?」
「ラサへ、行ってください、ラサへ」

中国人が「申し訳ありません」と言うのも珍しかったが、「ラサへ行ってください」とお願いされたのが何ともいい気分だった。
頼まれたんじゃ嫌とは言えねぇな、しょうがない、行ってやるか。
因みに飛行場はラサからバスで2時間ほど離れた場所にあったと思う。ラサ空港ではあるが、そこはラサではないのだ。
こうして私は、カトマンズに飛べなかったかわいそうなイタリア人グループのバスに同乗させてもらって、ラサに入ったのだった。高度の影響なのだと思うが、眠くて眠くて、どうにもならなかった。初めてのチベットの風景を目に焼き付けたいのに、眠ってしまう。自分の頭が窓枠にガンガンぶつかる音を聞きながらなお、目が覚めないのだ。
そうして私が運ばれていったのは、ラサ飯店という高級ホテルだった。当時外国人ツアー客は全員ここに泊まっていたのではないかと思う。ヤク・バーガーなる高級食べ物もあるそうだった。

棚からぼた餅ラサ飯店 !!!

もちろん私はそこには泊まれない(許可証もないし)ので、適当に走っている車をつかまえて旧市街に向かい、そこの小さな宿に何とか落ち着いた。

カトマンズ行の便が去ったあとで、私と同じことをやったドイツ人に撮ってもらった

 

ラサ滞在

ラサには8月17日から9月4日まで滞在した。途中で体調を崩したり、いろいろなことがあったけれども、初めてのラサを楽しんだ。

ジョカン前の広場から遠望するポタラ宮殿

ラサ旧市街の中心地、ジョカン(大昭寺)の前から遠望するポタラ宮殿。今では多分、ここからは見えないのではないかと思われる。定かではないが、高い建物がたくさんできて、おそらくは。

チャグポリの丘

ポタラ宮殿から出てくると、チャグポリの丘の前だった。
ここも聖なる地であるため、写真でわかるようにたくさんのタルチョーがはためいている。しかしこのてっぺんには、テレビ塔が立てられていた。宗教は毒、ですから。中国の思想としては。

ジョカンを巡るバルコル 漢族の姿は少ない

花がたくさん、尼寺で

ネチュン寺の近くで、尼さんだけがいるお堂があった。
よく調べていないので申し訳ないのだが、ネチュン寺の一部なのか、別の尼寺なのか、わからない。窓の外に花がたくさん育てられていて、チベットの人は花が好きなんだなーと思った記憶がある。それから十年以上の歳月を経て、私自身がラサまでではないが国内では厳しい気候環境の土地に住むようになり、今では彼らの気持ちが実によく理解できる。厳しいからこそ、植物が育つ季節にはたくさん育てて愛でたいのである。

壁画の修復作業

これもネチュン寺(またはその近く)の様子。壁画を修復していた。
チベット動乱の時、そしてその後長く続いた破壊の時代、そして文化大革命と、およそ25年間に及ぶ長い時間、チベットの寺院や文化は徹底的に破壊された。文革の終了からこの時で15年が経過していたわけだが、こうして修復することが許されるようになっただけ、中国のチベット政策は幾分マシになったと、言えるのかもしれない。あくまでも、あまりにもひどすぎた時代との比較であって、これがよい状態だと言っているわけではない。念のため。

山道でマニ石を彫る人

デプン寺からラサ市内に向かう山道がある。寺からまっすぐ下ればバスの通る道路に出るのだが、下らずにラサ方向へ行ける。今どうなっているかは知らないのだが。
その道を歩いていると、細い山道に座り込んでマニ石を彫っている人がいた。マニ石とは、石に真言を彫りこんだもののことで、チベット文化圏の峠や村の周囲などでよく見かける。たくさん集めて塚にしたり、石垣のようにずらっと並べたりもする。

 

一風変わったマニ石だった

 

この人は、ヘビやカエルといった生き物も彫るようだった。あまり他では見かけないように思う。特にネパール側のチベット文化圏では、見たことはない。

ラサの項は続きます

    コメント

    1. […] 既に見たことがある人もあるかもわからないけど一応貼っておきます。お暇な時に。 1991 初めてのラサ […]

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